お釈迦様の教え
七仏通戒の偈

  七仏通戒の偈(しちぶつつうかいのげ)
 諸悪莫作(しょあくまくさ)
 衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)
 自浄其意(じじょうごい)
 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)


 お釈迦様は真理に目覚めブッダ(仏陀。=仏)となられたのですが、真理に目覚めたのはお釈迦様だけではありませんでした。お釈迦様以前にも真理に目覚めてブッダになられた方が6人いました。お釈迦様を含めて「過去七仏」と呼ばれています。この七仏に共通の教えであり、仏教の特長をよくあらわし、仏教の要旨を簡潔に現しているといわれているのが、この「七仏通戒の偈」です。
 この意味は、「諸々の悪をせず、多くの善を行い、自ら心を清める、これが諸々の仏の教えである」、というのが一般的な解釈です。しかし、お釈迦様は弟子たちに決して「なになにしなさい」という言い方をせず、「自分で気がつき、自分で考えられるようにお話をされた」といわれています。ですから、七仏通戒の偈の解釈も「様々な悪い行いをしてはならない。多くの善い行いをしなさい」。というより、「様々な悪い行いをすまい(と、各人が自発的に自分の心に言い聞かせる)。多くの善い行いをしよう(と、各人が自発的に自分の心に言い聞かせる)。」と解釈すべきなのでしょう。

⇒展開:過去七仏

 ちなみに、過去七仏とは、次の7人ですが、前の3人ははるかな過去の人で、後の4人はお釈迦様と同時代の人といわれています。

毘婆尸仏(Vipasyin びばしぶつ)、毘鉢尸などとも音写し、勝観、浄観と訳。過去91劫、人の寿命が8万4千歳の時、槃頭婆提(ヴァンズディーガー)城に生れる。クシャトリア出身。姓は拘利若(コーリジャー)、父の槃頭婆多(ヴァンズディーター)、母は槃頭婆提、波波羅樹下にて成道、三会に説法し初会に16万8千人、第2会に10万人、三会に8万人を済度したといわれる。
尸棄仏(Sikhin しきぶつ)、式などとも音写する。過去荘厳劫に出現した千仏のうちの弟999仏目で、人の寿命が7万歳の時、光相城に生れる。クシャトリア出身。父を明相、母を光曜という。分陀利樹下に正覚し、三会に説法し初会に10万人、二会に8万人、三会に7万人を済度したという。
毘舎浮仏(Visvabhuj びしゃふぶつ)、毘舎符などとも音写、一切勝、一切有などと訳。過去31劫、人の寿命が6万歳の時、無喩城に生れる。クシャトリア出身。姓は拘利若(コーリジャー)、父名は善燈、母名は称戒、一子を妙覚という。婆羅(博叉)樹下に成道し、二会に説法し初会に7万人、二会で6万人を済度したという。
倶留孫仏(Krakhuccanda くるそんぶつ)、拘留孫などとも音写し、成就美妙、頂結などと訳す。現在賢劫における千仏の始めの仏とされる。人の寿命が4万歳の時、安和城に生れる。バラモン出身。姓は迦葉、父名を礼得、母名を善枝という。尸利樹下にて成道し第一回の説法において4万人の比丘を教下したという。
倶那含牟尼仏(Kanakamuni くなごんむにぶつ)、迦那伽牟尼、拘那牟尼などとも音写し、金仙人、金寂静などと訳す。賢劫千仏の第二仏。バラモン出身。姓を迦葉、父名を耶セン(目+炎)鉢多 Yannayadatta、母名を鬱多羅 Uttaraaという。烏暫婆羅 Udaumbara 樹下において成道し、第一会の説法をもって3万の比丘が阿羅漢果を得たという。
迦葉仏(Kasyapa かしょうぶつ)、迦葉波などと音写し、飲光と訳す。人の寿命が2万歳の時に出世した。バラモン出身。姓は同じく迦葉。父名を梵徳、母名を財主といい、子を集軍(進軍とも)いう。汲毘(波羅毘、パーラビー)王の波羅捺に生まれ、尼拘律陀(ニグローダ)樹下において成道。第一会の説法において弟子2万人を済度したという。
それと、釈迦牟尼仏、お釈迦様です。(ウイキペデ゙アによる)

⇒展開:三世の諸仏

 過去に心理に目覚めたブッダ(仏陀。=仏)が7人いたということは、未来にも真理に目覚め衆生を救済してくれる仏が現れるのではないかという未来仏信仰が起こってきました。その未来仏が弥勒菩薩です。(サンスクリット語でマイトレーヤといい、慈悲から生まれたものとされ、意訳して「慈氏」といわれます。また、菩薩とは悟りを求めて修行しているブッダ予備軍です。ですから弥勒菩薩も現在は兜率天(とそつてん)という天界で修行中といわれています。ところが弥勒菩薩が現れるのは、お釈迦様がなくなってから56億7千万年後と気が遠くなるような未来です。それでは、その間は仏のいない無仏の時代となってしまいます。そこで、お釈迦様はこの無仏の時代に、われわれ衆生(いきとしいけるもの)を救う役割を地蔵菩薩に託すことになりました。お地蔵さんです。地蔵菩薩はお釈迦様がなくなってから、弥勒菩薩が現れるまでの56億7千万年の間、衆生の救済に当たっているのです。
 古代インドでは、衆生は、生きているときの行為(これを業といいます)によって、死んだ後、天界、人界、阿修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六つの世界(これを六道といいます)を、永遠に回転し続ける車輪のように、際限なく六道を生きかわり死にかわりしている(これを六道輪廻、輪廻転生といいます)と言われています。。よく、お寺には六つのお地蔵さんが(これを六地蔵といいます)、六地蔵は六道のそれぞれの世界で衆生の救済に当たられているのです。
また、仏教ではお地蔵さんのほかに現在の世の中で苦しんでいる衆生を救ってくれる存在として観音さま(「観世音菩薩」とも「観自在菩薩」とも言われています)がいます。 観音様は、いつもは西方十万億土という途方もない遠いところにある極楽で、阿弥陀如来の脇侍を勤めているといわれています。しかし、この世で衆生が苦悩し、一生懸命「南無観世音菩薩」と称えると「あっ」という間にこの世に来て衆生を助けてくれるのです。
仏教では、過去、現在、未来を「三世」といいます。仏教では過去には七仏、現在はお地蔵さんと観音さま、未来は弥勒菩薩が、三世それぞれ衆生の救済に当たるといわれています。

⇒展開:十方の諸仏

 三世は時間を軸とした考え方ですが、十方とは、空間を軸とした考え方です。すなわち、四方(東西南北)と四維(東南、南西、東北、西北)に上と下の十方向を言います。要するに十方とは、あらゆる方向、あらゆる空間を指します。仏教ではあらゆる方向や空間に仏が存在しています。例えば前述の西方十万億土の極楽の仏である阿弥陀如来や、東方浄瑠璃世界の仏である薬師如来などが有名です。
衆生は、いつの時代にも、どんな場所にいても、これら三世十方の諸仏に見守られ生きていることになります。

⇒展開:通戒

仏教には、十戒、二百五十戒、三百四十八戒など、たくさん戒律(後述)がありますが、通戒とはその全体をさしたもの。

⇒展開:

偈とはサンスクリット語を音写したもので、経や論などの中に、韻文の形で、仏徳を賛嘆し教理を述べたもの。またはそれに準じて、仏教の真理を詩の形で述べたもの。

善悪の判断

 実際には「何が正しくて、何が悪なのか」という判断は、なんとなくはわかるが厳密にはなかなか難しいものです。毎日のTVや新聞をみていますと、この正悪の判断が出来ていないのではないかと思われるニュースが次々に報道されています。子供どころか大人でも「善悪の判断が出来ていない」といわざるをえません。確かに、厳密には善悪の判断は難しいものです。しかも、戦後誰も教えなかったのですから、解らなくても当たり前なのかもしれません。自分で自分の心を律する強いこころが無いと、人間の行動は水が低い方へ流れるように、悪いほうへ流れて行ってしまうようです。
仏教では「悪いことはすまい、善いことをしよう」と願い、心がけているうちに、悪いことが出来なくなるといっています。仏教では、善悪の判断の基準は、自主自律的な誓願とでもいえるものです。自他を活かし、自他共に幸せになることが「正しいこと」であり、自他を活かさず、自他共に不幸せになることが「悪いこと」なのです。日ごろから、八正道をはじめとする諸々のお釈迦様の教えにそった生き方をすることが大切なことになります。
ここでは、その他のいくつかの善悪の判断の基準とでもいえるお釈迦様の教えを次に紹介します。

七不退法

 あるとき、お釈迦様のもとにマガタ国の王の使いが来て「ヴァッジ国を攻撃してよいでしょうか」と質問しました。
ヴァッジ国は理想的な国でしたので、お釈迦様はこの攻撃をやめさせました。そのときの理由が次の七項目からなる「七不退法」と呼ばれるものです。


 一.ヴァッジ国の人々はよく集会を開いて正しいことを論じ合っている。
 二.統率者と部下がよく協力しあい、身分の上下をわきまえてお互いに尊敬し合っている。
 三.よく法律を順守し、してはいけないことをわきまえ、礼節にとんでいる。
 四.よく親孝行をして、目上の者を敬っている。
 五.寺院に奉仕し、先祖の供養をよく行っている。
 六.男女間の礼節をよく守っている。
 七.戒律を守っている出家者に奉仕し、躊躇なく援助している。

 そして、お釈迦様は「この様な国はお年寄りから子供まで皆仲良くし、家庭や社会はますます繁栄し、決してその国は滅びることはない」と、七度繰り返し、マガタ国の王に攻撃をやめさせたというのです。一つひとつが普遍的な内容ですので、現代に置き換えても十分納得いく内容です。是非、参考にしたいものです。
お釈迦様の求めていたのは平和でした。一人ひとりの心が平和ならば、国家も世界もみんな平和になるということです。お釈迦様はヴァッジ国に理想の国家像を見ていたようです。後に、お釈迦様は仏教教団に、このヴァッジ国のエッセンスを取り入れました。そのため、仏教教団(サンガ)は「和合衆」とも訳されています。

戒律

 組織、社会などどんな人の集まりでも、各人が自由で勝手気ままに言動すると秩序が保てず、弱肉強食の地獄になってしまうでしょう。秩序を守るためには約束事を作り皆が守らねばなりません。この約束事を仏教では「戒律」と呼んでいます。戒律の「戒」とは、人生をいかに善く生きるべきかの指標、あるいは道徳というようなものです。きまりを守ろうとする自発的な心のはたらきです。ですから戒には罰則はありません。一方、「律」とは、他律的な規範を言います。法律、規則などです。ですからこちらには罰則があります。
仏教のサンガ(教団)にもたくさんの戒律があります。例えば、男性の出家者(比丘)は250もの戒(これを250戒といいます)を守らなくてはなりません。女性の出家者(比丘尼)にいたっては348の戒(これを348戒といいます)を守るように定められています。

          十善戒(じゅうぜんかい)

 しかし、後に大乗仏教が興ると、在家の信者に対して大乗戒として次の十善戒が説かれました。出家者と違い在家の信者は、お釈迦様の基本理念としての菩薩としての戒があればよいということで、出家者に比べて大幅に少なくなっています。

 一.不殺生(殺すなかれ)
 二.不偸盗(盗むなかれ)
 三.不邪淫(貞潔であれ)
 四.不妄語(偽るなかれ)
 五.不両舌(二枚舌をつかうなかれ)
 六.不悪口(悪口をいうなかれ)
 七.不綺語(戯れ言を言うなかれ)
 八.不貪欲(貪るなかれ)
 九.不瞋恚(怒るなかれ)
 十.不邪見(誤った見解を持つなかれ)

 十戒を守ることが十善であり、背くことが十悪となります。わずか十の戒ですのでこのくらいは守りたいものですが、われわれ凡人にはそれさえもなかなか難しいものです。ヒントとしては、十戒はその原因別に次のように分類されます。
・「身」に関する三つの戒め(1.不殺生・2、不偸盗・3、不邪淫)と、
・「口」に関する四つの戒め(4、不妄語・5、不両舌・6、不悪口・7、不綺語)と、
・「意」にかんする三つの戒め(8、不貪欲・9、不瞋恚・10、不邪見)に分けられます。
このことから、身、口、意(こころ)の三つに注意し、これを清めていくことが一つの方法ではないでしょうか。

            三聚浄戒(さんじゅじょうかい)

十善戒は後に、次の三聚浄戒へと展開していきました。

 一.摂律儀戒(しょうりつぎかい):「止悪」といわれています。すべての不善を為さない、悪いことは誓っていたしませんということです。
 二.摂善法戒(しょうぜんぽうかい):「修善」といわれています。あらゆる善行に励みます。良いことは誓っていたします、ということです。
 三.摂衆生戒(せっしゅうじょうかい):「利他」といわれています。世のため人のために尽くそうと誓うことです。これが仏の教えであり、人の生き方なのです。

            十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)

その後、中国や日本では大乗仏教が発展していきましたが、それに伴って次の十重禁戒が重要視されました。

 一、快意殺生戒(けいせっしょうかい):殺すなかれ。
 二、劫盗人物戒(こうとうにんもつかい):盗むなかれ。
 三、無慈行欲戒(むじぎょうよくかい):無慈悲なこと、みだらなことをするなかれ。
 四、故心妄語戒(こしんもうごかい):故意に嘘をつくことなかれ。
 五、こ酒生罪戒(こしゅしょうざいかい):酒を売るなかれ。
    (ここでの「こ」は酉へんに古と書きます。意味は売るということ。つまり「不酉古酒」とは酒を売るな、酒を買うなということ。
    仏教では飲酒ということについて厳しく戒めている。お釈迦様はお酒について「恥をしるものは飲まない」とまでいっている)。
 六、談他過失戒(だんたかしつかい):他人の過ちを言いふらすなかれ。
 七、自讃毀侘戒(ふじさんきたかい):己の自慢や他人の悪口をいうなかれ。
 八、慳生毀辱戒(けんしょうきにくかい):与えることを惜しむなかれ。(欲しがる人に恥をかかすな)
 九、瞋不受謝戒(しんふじゅしゃかい):激しい怒りで人を謝らせることなかれ。
 十、毀謗三宝戒(きぼうさんぼうかい):仏法僧(これを三宝という)を謗(そし)るなかれ。

 十重禁戒を読めばお分かりのように、大乗仏教の発展とともに、それまでの十善戒や三聚浄戒を受けて十重禁戒が成立しました。十重禁戒は菩薩の守るべき戒とされ「菩薩戒」といわれています。
 この菩薩戒は6世紀に中国の隋時代の天台智者大師(てんだいちぎだいし(538-597))によって大成し、その後、最澄(伝教大師)によって日本に伝えられ、その後法然上人などによって広く全国に広まり、その後の日本の道徳規範の礎になっていきました。権利や自由が大手を振って闊歩している現代ではもう一度戒律を見直す必要があるのではないでしょうか。

自ずから浄めていく力もある


 そもそも、いきとしいけるものには 全て、「自ずから自分の心を浄めていこうとする力が具わっているのではないか」、といわれています。それは、例えば、われわれがちょっとした怪我をしたときに自然に治癒するように、心にも自然治癒力が存在するのではないかということです。辛いことや苦しいことがあっても自ら立ち直れる力です。勿論、家族や周囲の人の助けも必要ですが、最終的には本人の立ち直ろうという心がもっとも重要なことです。

実行することの大切さ

 人を殺してはいけない、人のものを盗んではいけない、など十戒で言われていることはほとんどの人はわかっているはずです。しかし、こんな簡単なこともなかなか守れないのが人間です。わかっていても、実行しなければなんの意味もありません。
このことについて、曹洞宗の開祖、道元禅師は、「正法眼蔵 諸悪莫作」の中で、次の唐の白楽天と道林禅師(和尚)の「七仏通戒の偈」の故事を引き合いに出しています。

 白楽天は都で失脚し、杭州の長官として赴任しました。この杭州の秦望山というところには、道林和尚(741年〜824年)という禅僧が住んでいました。
この和尚さんは、松の木の枝葉が鳥の巣のようになったところ(これを彙(か)という)で生活したり、坐禅の修行をしているという変わった和尚さんでした。そのため、人々は鳥彙道林(ちょうかどうりん)と呼んでいました。白楽天はこの噂を聞いて、早速道林に会いに行きました。するとやはり道林は木の上で坐禅していました。
そこで、白楽天は、「和尚、そこは危ないですよ」といいました。
すると、道林は、「長官、あなたのほうが、もっと危険なのではないですか」と返しました。(あなたの世界は、左遷・失脚・裏切り・寝返り・犠牲など危険なことがいっぱいあり、木の上以上に危険でしょう」、という意味)。
白楽天は返答できませんでした。
そこで、今度は「仏教とは何ですか」と問いました。
すると、道林は「諸悪莫作・衆善奉行」と答えました。
白楽天は言いました、「そんなことは、三歳の子供でも知っていますよ」と。
だが、道林は動ずることなく「三歳の子供が知っていても、八十の老人(当然物事の分別がわかっているはずの人)すらこれを実行することはむずかしいものだ」と答えました。感服した白楽天は以後道林の元で仏道の修行をしました。

以上がその故事です。簡単なことでも実行することは難しいことをよく表しています。いや、簡単なことだから実行することは難しいのかも知れません。(ただし、この有名な問答は、史実としては認められていません)。

⇒展開:白楽天(白居易)とは

 白楽天(772年〜846年)は、中国の唐時代を代表する詩人です。本名を白居易といいます。彼の詩は清少納言や紫式部を始め、その後の日本の文学にも大きな影響を与えました。彼は河南省の新鄭に生まれ、29歳で官吏登用試験に合格、その後順調に中央の高級官僚コースを歩んでいました。しかし、彼が40歳のとき母親を、続いて幼い娘をなくしました。悪いことは重なるもので、今度は仕事でも失脚してしまいます。苦悩した彼は仏教に傾倒していきました。そして、50歳のとき、みずから求めて、杭州という地方の刺史(州の長官、今の県知事に当たる)となって赴任します。やがて再び都に呼び戻されました。そして最終的には刑部尚書(今ならさしずめ法務大臣か)までのぼりつめ現役を引退します。晩年は、洛陽に居をかまえ、詩と酒と琴を三友として、悠々自適の生活をおくったということです。
参考までに、彼の代表的な七言律詩「香炉峰下新卜山居 草堂初成偶題東壁」を次に紹介します。清少納言の枕草子の一節(第二百八十段)にも「香炉峰の雪は簾(すだれ)を撥(かか)げて看る」をもちいていますので、「何だ、この詩だったら知っているよ」という人も多いのではないでしょうか。

日高睡足猶慵起  日高く睡り足りて猶(なお)起くるに慵(ものう)し
小閣重衾不怕寒  小閣に衾(きん)を重ねて寒(かん)を怕(おそ)れず
遺愛寺鐘欹枕聴  遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き
香炉峰雪撥簾看  香炉峰の雪は簾(すだれ)を撥(かか)げて看る
匡廬便是逃名地  匡廬(きょうろ)は便(すなわち)是れ名を逃(のが)るるの地
司馬仍為送老官 司馬(しば)は仍(なお)老を送るの官為(た)り
心泰身寧是帰処  心泰(やす)く身寧(やす)きは是れ帰する処
故郷何独在長安  故郷 何ぞ独(ひとり)長安にのみ在(あ)らんや

⇒展開:道林禅師とは

 道林禅師(741年〜824年。禅宗の僧ですので道林和尚とも)は、唐の時代に、浙江省富陽県に生まれました。俗姓は潘(はん)氏。禅宗の僧。824年、道林禅師は「我れ今、報尽きたり」といって坐亡(ざぼう。坐って亡くなること)した、といわれています。

⇒展開:道元禅師とは

 道元禅師(1200年〜1253年)は、鎌倉時代の禅僧で、曹洞宗の開祖。京都に生まれました。3歳の時に父を、8歳の時に母を亡くしました。そして、13歳で比叡山にのぼり、14歳で出家しています。しかし、当時の比叡山は彼の希望を満足させるようなものではありませんでした。山を下りた彼は、各地の寺を訪ねましたが、やはり、満足できません。そこで、24歳のとき真の仏道を求めて中国へ渡りました。そして、天童山で如浄禅師と出会い、そこでひたすら座禅に明け暮れました。そして、只管打坐(しかんたざ。ただひたすらに座禅をすることが最高の修行である)という教えを持って帰国しました。その後、有名な正法眼蔵などの著書を著し、その教えの布教につとめました。そして43歳のとき、支援者である、越前国の地頭波多野義重に招かれ、福井県の山中に永平寺を建て、ここで修行と弟子の育成に専念しました。その後、一時期執権北条時頼の招請により鎌倉に赴き布教活動をしました。しかし、54歳のとき病気に罹り、その生涯を閉じました。