人は死んだらどこに行くのか?



 「人は死んだらどこに行くのか?」この疑問は現世を生きている人々にとって永遠のテーマです。何しろあの世へ行って戻ってきた人はいないのですから。このテーマは民族、宗教、歴史などの諸要因によって大きな違いがあります。今回は日本人はどう考えているかについて述べていきます。このテーマについて日本人に最も大きな影響を与えたのは仏教です。そのため、これから述べるのは仏教の考え方を基礎としたものになります。

悟り(解脱)
 先ず、仏教の最終目的は悟りを得ることです。悟りとは解脱することです。解脱とは迷いを払い去って永遠の真理を得ることです。解脱をすれば死後永遠に苦のない極楽浄土に往生できるというものです。しかし、解脱できる人はおしゃか様などごくごく一部の人に限られます。では、それ以外の解脱出来なかった殆どの人は何処へ行くのかというのが今回のテーマです。

輪廻転生
 仏教の生まれた古代インドでは、解脱できなかった人は死後「輪廻転生」すると言われています。輪廻転生とは天道(界)、人道(界)、修羅道(界)、畜生道(界)、餓鬼道(界)、地獄道(界)の六つの道(世界)を生まれては死に死んでは生まれることを永遠に繰り返すと言われています。そのため輪廻転生は六道輪廻とも言われています。インドの人たちはこの六道のいずれの世界も苦ととらえました。そのため永遠に苦のない極楽に往生したいと解脱するためいろいろ修行したりするのですが、ほとんどの人は解脱できずに死を迎えるのです。

  輪廻転生で参考までに六地蔵について簡単に解説します。地蔵さまは地蔵菩薩といい、悟りを開いて極楽に行けるのに行かずに衆生の救済活動をしているありがたい存在です。衆生救済という意味では観音様と同じような役割です。ですから大概のお寺に行くとこの地蔵様の像があります。そしてお寺によってはその地蔵像が6つあるところがあります。一般的には六地蔵と呼んでいますが、これは六道のそれぞれの世界で苦しんでいる人々を救済する目的で設置されたものです。

中陰
 人は死ぬとその肉体は土にかえりますが、その「霊」は次の行き先が決まるまで7日ごとに「7回の審査」を受け
て49日目の7回目の審査でその行き先が決まり「仏」になります。この間を中陰といいます。この世(此岸)とあの世(彼岸)の間という
事です。そのため遺族たちの香典袋には49日までは、「御霊前」と書き、49日以後は「御仏前」と書くのです。
 次にこの霊が仏になるまでの49日間を順次説明します。人は死ぬと「冥途(仏教と道教が融合してできた概念で死者の行く暗黒の世界で「冥府」ともいう)の旅」が始まります。この道程は距離八百里の山道という難路です。この過酷な道中の飢えや渇きを満たすために必要なのが「香」です。ですから、遺族たちの焼香は死者にとっては大変大切なことなのです。

 そして、死後7日目に六道のどの世界に行くのかの第一回目の審査をうけなければなりません。審査委員は秦広王(しんこうおう)です。
 次には「三途の川」を渡らなければなりません。三途の川とは死者の生前の行為で罪の軽い人は橋を渡って渡れますが、罪の重い人はその軽重により罪の軽い人は浅瀬を、罪の重い人は濁流を渡ることになります。このように川を渡る方法が三通りあるということで「三途の川」と言われるのです。この川の渡し賃が六文と言われています。遺族が死者に六文(一文銭を6枚)を持たせてやるというのはこのことに由来しています。話は変わりますが戦国一の武将と言われた真田家の家紋は「戦いで命を惜しまない、あるいは死を恐れない」という意味でこの六文(一文銭を縦に3ケづつ2列並べたもの)を旗印などに使いました。
 死者が三途の川を渡りきると衣領樹という木があります。死者はここでおじいさん(懸衣翁)とおばあさん(奪衣婆)に着ているものを全て剥ぎ取られます。懸衣翁と奪衣婆は剥ぎ取った着物を衣菱樹という特殊な木の枝に懸けます。この木はその枝のしなり具合で死者の生前の行為を判断すると言われています。罪の軽い人は橋を渡って着ますので衣服は濡れていないので軽いから枝がしならないが、罪の重い人は濁流を渡ってきますから、衣服はずぶぬれで重くなるから枝が大きくしなるため罪の軽重の量りになるというわけです。
 14日目には第二回目の審査を受けます。審査委員は 初江王(しょこうおう)です。ここで裁かれるのは殺生です。仏教では無益に生き物の命を奪うのは最も罪が重い行為と言われています。
 21日目には第三回目の審査を受けます。審査委員は宋帝王(そうていおう) です。ここでは猫と蛇を使って死者の生前の邪淫の行為を審査
ます。
 28日目には第四回目の審査を受けます。審査委員は伍官王(ごかんおう)です。ここでは死者の生前の言動を審査します。
 35日間目には第五回目の審査です。審査委員は有名な閻魔王(えんまおう)です。ここでは特別な鏡に死者の生前の行為を全部映し出し審査します。
 49日目には第六回目の審査を受けます。審査委員は変成王(へんじょうおう)です。ここでの審査は第四と第五内容と同じです。
 49日目には第七回目の最終審査が行われます。審査委員は 泰山王(たいぜんおう)です。死者に六つの方向、つまり六道を指します。死者は自分の行きたい方向に進みます。するとその方向がその人の輪廻先になります。死者は生前の行為により必然的に輪廻先が決まるのです。
 
※(注)宗派によってはこの中陰が無く、死、即成仏するという宗派もあります。

審査項目:業
  このように死んだ人は7回の審査を受け行き先が決まるのですが、ではなにを審査するのかですが、審査項目は「業」のみです。業とは「死んだ人が生前に行なってきた行為」です。業は大きく分けて「善業」と「悪業」に分かれます。私は善業とは人を幸せにする行為、悪業とは人を不幸にする行為だと思っています。仏教では善業として6つの徳目を挙げています。布施(親切)、持戒(言行一致)、精進(努力)、忍辱(忍耐)、禅譲(反省)、智慧(修善)の六つです。これを「六波羅蜜」と言って人が進んで行う行為としています。例えば最近の事例では、困っている人を助ける活動をしているスーパーボランティア言われている尾畠春夫さんは良い例ではないでしょうか。また、悪業とは人を不幸せにする行為です。仏教では人として守らなければならないものの一つとして「五戒」というものがあります。不殺生戒(生き物を殺さな)、不偸盗戒(他人の物を盗まない)、不邪淫戒(不倫や浮気をしない)、不妄語戒(嘘をつかない)、不飲酒戒(お酒を飲まない)の五つです。それぞれに程度の差はあれ悪業はマイナスポイントです。
 

因果応報
 死者は、この業の評価の良い順に、天道(天界)、人道(人界)、修羅道(修羅界)、畜生道(畜生界)、餓鬼道(餓鬼界)の六つの道(世界)に振り分けられます。死者はこの六つの世界を生きては死に死んでは生まれてを永遠に繰り返すと言われています。天道は地獄道よりも多少よさそうですが、いずれも苦の世界です。このように生前の業(生き方)によって良い業を積んだ人は死後もよい世界に、生前に悪い業を積んだ人は死後も悪い世界に行かねばなりません。仏教ではこれを「因果応報」と言います。これも仏教の基本手的な考え方の一つです、そのため古代インドの人たちは修行をして解脱しこの輪廻転生から抜け出したいと願ったのです。
 しかし、ごく普通に考えてください。自分の人生でまったく悪行をしていない人なんていません。例えば、第二次世界大戦後大変な食糧危機になりました。そこで政府は食料を配給にしました。しかし、少量の配給だけでは生きていけませんので殆どの々は違法と知りながら闇米などを購入して命をつないだのでした。ところが裁判官であった山口良忠判事は闇米を拒絶し続けたため、やがて栄養失調で絶命(享年33歳)してしまいました。戦後を生き延びた人々はほとんどの人々が闇米に手を出して戦後を生き延びることができたのです。ということは大概の人は天界よりも人界、人界よりも修羅界へ行く確立が高く、若しかしたら殆どの人が最も厳しい地獄界に振り分けられてしまいそうです。地獄界については平安時代の天台宗の僧源信が著した往生要集によれば針の山を登らされたり、血の海を泳がされたりと恐ろしいことがいろいろ書かれています。


追善供養
 しかし、これでは死後の世界の夢も希望も無くなってしまいます。そこで、これらの人々を救うために考えられた方法の一つが「追善供養」です。追善供養とは七日ごとの審査日に、亡くなった人の遺族たちが、一生懸命に故人のために読経したり、焼香をしたり、花を供えたりすることで、これらの遺族たちの善行が死者の善業に追加・加点され故人の輪廻転生からの脱出を手助けすることです。言わば点数に下駄を履かせるということになります。審査の結果が30点の人で地獄行きの判定がされた人でも、遺族が一生懸命追善供養をして70点加点されれば、永遠に苦のない極楽に往生できるということです。このように追善供養は死者の霊にとっては大変重要な法事だと言えるのです。

※追善供養に対して年忌法要というものがあります。これは命日から数えて1、7、13、17、23、27、33、50年目の命日に行われる法要です。一般的には33回忌や50回忌で弔い上げしているようです。

 いかに良い人生を送るか
 一般に、仏教は死後の世界の担当のような言い方をされますがそれは違います。一番大切なのは、今を生きる人が如何に良い人生を全うするかということです。良い生き方とは極力悪業を減らし、善業を増やした生き方をするということです。仏教では「亡己利他」といいますが、簡単に言えば「「思いやり」と「おかげさま」の心で生きることです。このように仏教は我々現世を生きている人間の行動指針として、あるいは我々の道徳的な心、すなわち道徳心(辞書によれば、「社会生活を営む上で、一人一人が守るべき行為の総体。自分の良心によって善を行い悪を行わないこと」とあります)を養う役割を果たしているのではないでしょうか。

最後に芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を紹介します。
極楽で庭を散歩をしていたおしゃか様が、蓮池を覗いてみると、そこには地獄の血の海で苦しんでいる沢山の亡者達が見えました。その中にカンダタという生前は大悪人の姿も見えました。この男は大悪人でしたが一つだけ良いことをしました。それは蜘蛛の命を助けたことでした。
そこでおしゃか様はこの男を助けたいと思い、極楽から地獄へ蜘蛛の糸を垂らしました。すると、この糸は地獄の血の海で苦しんでいたカンダタの目の前に降りてきました。カンダタはこの糸を登っていけば地獄から抜け出せるかもしれないと思い、この糸をどんどん登っていきました。相当登ったところで後ろを振り向くと自分の後ろには無数の亡者たちが細い蜘蛛の糸を登ってくるのが見えました。そこでカンダタは「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰にきいて登ってきた。下りろ。下りろ。」とわめいました。そのとたんに、蜘蛛の糸はカンダタの握っているその上で「プツリ」と切れてしまいました。そしてカンダタは他の亡者たちと地獄へ落ちていきました。

という話です。 縁、因果応報・亡己利他(自利自利)など非常に多くの仏教の教えが学べる物語だと思いますので参考までに!




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