経営者基礎コース第1回

松下幸之助を学ぶ

はじめに

 経営者基礎コースレポート第一回目のテーマは、「松下幸之助を学ぶ」です。昨今、「金で何でも買える」と発言する経営者や、乗客107人もの犠牲者を出ても社長の座から下りない経営者など、経営者としての品格や資質などに疑問を感じざるを得ないニュースが多く目につきます。
これらの事例は、「経営者は如何にあるべきか」との素朴な疑問を生じざるをえません。そこで、もう一度経営の原点に戻り経営者のあり方を考えてみたいと思います。そこで「経営の神様」といわれた松下幸之助の考え方や行動を学ぼうということで表記テーマにしました。
 ご存知のように、彼は卓越した経営手腕と人となりで、町工場から起業し、松下電器産業を一代で日本を代表する世界的企業に導いた人物として有名です。彼の考え方と活動は、一企業の経営者の域に止まらず、哲学、思想、社会活動など広範囲にわたっており、その後の経営者を初めとした多くの人々に多大な影響を与えています。
 今回は、松下幸之助の生い立ちから説き起こし、時系列に、彼が何を考えどんな経営をしたのかを記述しました。「学ぶ」の原点は「まねる」です。彼は何を考え、どう行動したのか参考になることは大いにまねしていただきたいと思います。

生い立ち

 明治27年(1894)11月27日、松下幸之助(以下幸之助という)は和歌山県海草郡和佐村に松下家の三男として生をうけた。兄弟は兄2人、姉3人の計6人である。生家は地主で裕福な家庭であった。
 しかし、父が米相場に手を出し失敗してから、生活の困窮が始まる。そして、一家は住んでいた土地建物を売り払って、和歌山市に移り住むことになった。しかも、その頃、長兄、次兄、そして長女が相次いで病死した。しかし、その後も父の相場通いは止まず、生活は窮乏を極めた。そのため、決して身体の丈夫でなかった幸之助も、小学校を4年で中退し、大阪の宮田火鉢店へ丁稚(でっち)奉公(ぼうこう)に出ることになった。幸之助9歳のことである。しかし、その2年後に今度は父親が病死し、一家は次に大阪へ移り住むことになった。このころ幸之助も奉公先を五代商会という自転車屋へと変わっていった。11歳のことである。

共存共栄

 幸之助の経営者としての原点は、この自転車屋の丁稚時代まで遡ることになる。当時の自転車屋では、修理に来た客が、修理が終わるまでの待ち時間に、よく丁稚に用事を言いつけた。一番多かったのは「タバコを買ってきてくれ」であった。幸之助もよく言いつけられた。何度も言いつけられているうちに、言われる度に汚れた手を洗いタバコを買いにいくのは、自分も客も不便である。ならば、タバコを買い置きしておけば、すぐ客に渡せて便利である。しかも、20箱まとめ買いをすれば、1箱おまけがついてきてこれが幸之助の利益になり、一挙両得である。しかし、このことで幸之助は店主から、「店の客を相手に商売するとは何事だ」と大目玉を食うことになった。これは一人だけ儲ける幸之助を妬(ねた)んだ同僚の丁稚が、店主に告げ口をしたためだった。この体験が幸之助に大きな教訓を与えた。「もし、自分が他の丁稚に事前に相談し、儲けを分け合っていたらこんな目に合わなかっただろう。商売で自分だけが儲けるのはよくない。場合によってはとんだしっぺ返しにあう。仕事をやろうとすれば、利益を多くの人と共有しなければならない」幸之助のこの考え方は後に「共存共栄」の哲学といわれ、その後の松下電器産業を貫く経営理念となっていくのである。

松下電器産業の起源

 15歳のとき、大阪の町に市内電車が走っているのを見て、その素晴らしさに感動した幸之助は、「これからは電気の時代だ。人力の自転車はもう古い」と考え、店主に暇をもらい自転車屋を辞めた。そして、知人を頼って大阪電燈(現関西電力)に就職し、内線工になった。そして3年もするとすっかり仕事を覚えてしまったと言われている。そして、この間、幸之助は開業資金を貯めていったのである。
 大正7年(1918)3月7日、幸之助は大阪電燈(現関西電力)を退職し、かき集めた100万円を元手に大阪の大開町で、アタッチメントプラグや二灯用差込プラグなどの配線器具の製造会社、「松下電器器具製作所」を設立した。この松下電器器具製作所が、現在、日本を代表する巨大企業「松下電器産業」(以後松下電器という)の起源である。
この時、幸之助23歳。従業員は3年前に結婚した妻の「むめの」21歳、むめのの弟 井植歳男(いうえとしお)(後の三洋電器の創始者)15歳の3人であった。工場は十畳足らずの借家である。絵に描いたような零細企業であった。最初は妻の指輪や着物を質入したりして、急場を凌ぐなど苦しい経営だった。しかし、その後二股ソケットや自転車用角型ランプなどヒット商品を次々と打ち出し急成長していくことになる。(松下電器のブランド名である「ナショナル」(national)はこのころ「国民に愛される、国民のための商品」の思いで命名したものである)

売れる商品を作る

 このころ、幸之助が町を歩いていると、ある家の中から女性(姉妹とも母娘とも言われている)のいい争いが聞こえてきた。一方は「暗くなったから電器を点けたい」といい、他方は「アイロンかけが終わっていないからダメだ」と言う。この口論を聞いた幸之助は、ハタと思いついた。「だったら二人同時に使えるソケットはできないものか。このような不便をかんじている人は多いはずである。作ればきっと売れるに違いない」かくして思考錯誤の末、「二股ソッケット」を開発。大いに売上を伸ばした。これ以降、幸之助、そして松下電器のやり方は、常に一般消費者が必要としている商品を開発していくという方法により発展していくことになる。別な言い方をすれば松下電器は売れる商品のみを作るのである。逆に言えば売れない商品は作らないのである。(しかし、他社が開発した商品でも、売れると見れば一つ二つ改良し、大量に生産し、販売するという松下電器の商法は「二番手商法」とか「マネシタ」と揶揄された)

関東大震災

 大正12年(1923)9月1日に、関東大震災が東京を襲った。この被害は凄まじく死者・行方不明者は10万人を越え、東京の市街地の3分の2は塵灰(じんかい)に帰した。このころ松下電器は東京にも大いに進出していたため、松下電器の得意先も甚大な損害を被った。この時、幸之助は「得意先からは売掛金の半分だけ頂き、これから納める商品の値段は震災前と同じとし、数量はいくらでも供給します」(現状は震災で品薄になり、値段も数倍に跳ね上がっていた)というものだった。まもなく売掛金は全額回収することができた。そして、この一件は得意先から感謝されるとともに、東京における松下電器の信用を一気に確立することになった。

終身雇用制

 昭和4年(1929)10月24日、ニューヨークの株式大暴落に端を発した世界大恐慌は、日本経済をも直撃し、街には失業者が溢れた。松下電器でも在庫の山を抱えることになった。もはや従業員の大量解雇は免れられないと思われた。しかし、幸之助はそうはしなかった。幸之助の打開策はこうであった「明日から工場は半日勤務にして生産は半減する。しかし、工員の給料は日給の全額を支給する。その代わり、明日から社員は休日を返上し、在庫の販売に全力で取組む」というものであった。「半日の工賃など、長い目で見ればたいしたことはない。それよりも従業員を解雇して松下電器の信頼にヒビが入るほうが問題である」というのがその理由である。その結果、2ヶ月で在庫の山は消え、工場もフル稼働に戻った。
 このように厳しい環境下でも従業員を守る幸之助のこの考え方が、その後日本式経営の象徴の一つである「終身雇用制」の始まりであると言われている。

水道哲学

 昭和7年(1932)、松下電器は既に従業員1千人規模の企業に成長していた。このころ幸之助は、天理教本部を訪れる機会があった。そこで、幸之助は、水を大量に使いながら一生懸命本山の掃除に励む信徒の姿を見た。このことがヒントになり有名な「水道哲学」を思いつくのである。幸之助は後にその著書の中で『聖なる経営、真個の経営とはいかなるものか。それは水道の水だ。加工された水は価値がある。今日、価値あるものは、これを盗めば咎(とが)められるのが常識だ。然るに水道の水は加工されたものにかかわらず、乞食が水道の栓をひねって存分にその水を盗み飲んだとしても、水そのものについての咎めは聞いた事がない。これは何故か。それは価値あるにも拘らず、その量が余りに豊富だからである』(幸之助著「私の生き方考え方」より)といっている。
 要は、たくさん製造すればするほど原価は下がる(このことは、ごく最近米国の経営コンサルタント会社のボストンコンサルテインググループにより科学的に立証された。累計生産量が2倍になると単位当り生産コストは85%まで下がるという「経験曲線効果」理論である)。原価がどんどん下がれば適正な利益を上乗せしても販売価格をどんどん下げることができる。その結果、いままで手の出なかった低所得者(多くの一般大衆)でも買うことができるようになり、社会全体が豊かになると言う考え方である。この繁栄という概念を取り入れた水道哲学は、共存共栄と並ぶ松下電器の経営理念となっている。

販売の松下

 よく「技術のソニー、販売の松下」と言われる。その「販売の松下」の強さの秘訣はどこにあるのだろうか。読者の殆どの人が街中で「ナショナル」の看板を掲げた電気屋さんを見かけたことがあると思う。この電気屋さんが松下電器の系列小売店で「ナショナルショップ」といわれる。このナショナルショップが、販売の松下電器を支える原動力となっているのである。その強みは二つある。
 一つは圧倒的な店舗数の多さである。最盛期には全国で約5万店舗を数え(因みに全国のコンビニエンスストアーの数は約4万店舗)
 二つ目は、このナショナルショップ店主たちの、松下に対しての高いロイヤリテイ(忠誠心)である。このロイヤリテイこそが、日立や東芝にない、販売の松下を支える絶対的な強さなのである。何故ナショナルショップだけがこのような高いロイヤリテイを持っているのか。答えは明快である。「松下幸之助」がいたからである。
 戦後、幸之助は、販路を拡大するために、全国の日立や東芝の製品を売っていた小売店を一軒一軒訪ね歩いては、松下電器の製品も置いてくれる様に頼んだのである。そのとき、彼が説いたのが共存哲学と水道哲学の理念であった。「消費者に安くて良いものを提供したい。そのためにはどうしてもあなた方の協力が必要です。松下も誠心誠意努力します。だから松下と一緒に頑張って共に儲けましょう」と店主たちに訴えたと言う。この幸之助の言葉はショップの店主たちの心を強く打った。「天下の松下電器の社長がわざわざこんな遠くまで来てくれて、誠心誠意さそってくれる。ありがたいことだ」そして、「私も及ばずながら協力させて頂きましょう」という経緯があったのである。これは日立や東芝には到底真似のできないことであった。このように、松下電器と小売店の関係は単なるメーカーと販売店と言う関係ではなく、それを越えた店主と幸之助の同志的結びつき、言葉を変えれば心と心の結びつきが基礎にあるのだ。彼らは松下電器ではなく幸之助という個人に対して忠誠を誓っているのである。
 幸之助もその店主たちの忠誠心に報いるために徹底した援助を与えた。幸之助の面倒見のよさは、なにも販売面に留まらなかった。

 昭和40年代になるとナショナルショップの店主たちは高齢になってきたが、その息子や娘たちは家業を継がないため、店主たちは幸之助に「何とかして欲しい」と泣きを入れた。この様なショップの切実な後継者不足の悩みを解消するために、昭和45年(1970)、幸之助は「松下幸之助商学院」という専門学校を滋賀県に設立した。ここで、幸之助はショップの息子や娘たちを教育して、一人前の商人の心を持った社会人を育成することにしたのである。
 商学院の教育についてふれると、教育理念は、徳育、知育、体育の三位一体の教育を目指している。一日のカリキュラムは、毎朝5時55分の起床に始まり、体操の後、故郷の方角に向いて最敬礼をし、生家の父母に感謝の気持ちを表す。その後、約3キロメートルの駆け足。40分の正座による東洋古典の受講などである。東洋古典の内容は、大学、論語、孟子などであり、これを音読する。そのほか、五つの「商学院マナー」と呼ばれるものがある。@挨拶は大きな声で。A言葉使いは正しく。B行動はきびきびと。C履物はきちんと。D清掃はすみずみまで。の五つである。商学院はこれらの教育を通して、ショップの後継者に社会人としての基本を習得させようというのがその目的である。従って、商売用の小手先のテクニックを教えるものではない。
その後、商学院は33年で修業生4500人を輩出しており、彼らはナショナルショップの有力な後継者となっていくのである。 (今、学校教育の荒廃が叫ばれていますが、私はこの松下幸之助商学院の教育は真の教育であると考えています)。

明徳会

 商学院の卒業生は、卒業と同時に明徳会という親睦団体の会員になる。明徳会の特徴は二つある。
 一つ目は、会員同士の結びつきが極めて強いことである。商学院の卒業生は、卒業して田舎に帰るとショップの店主として自立することになるわけだが、若くとも店主は社長である。社長とは孤独な存在である(組織の頂点にいる者の宿命)そんな店主達にとって、明徳会会員の存在は、「同じ釜の飯を食った仲間」として本音で話ができる関係なのである。そのため、会員同士の絆は強固である。例えば、他の会員が大売出しで忙しいときなどは、自分の店を省みず手弁当で応援に駆けつけると言うように、会員同士の結びつきが非常に強い。
 二つ目は、明徳会会員のショップはいずれも優良店であると言うことである。明徳会会員のショップの店舗はショップ全体の比率の13%だが、売上では23%を占めているのである。
このように、商学院の教育成果は、数字にも顕著に表れている。

任せる経営

昭和8年(1933)5月、幸之助は世界で始めて「事業部制」を導入した。『松下電器は何を作っている会社ですかと尋ねられたら、人を作っているところだと答え、しかる後に、電器製品も作っておりますと答えて頂きたい』これは幸之助の有名な言葉である。責任ある仕事を社員に任せることで、社員のやる気や能力を引き出し、将来の幹部に引き立てようと言う人材育成方法である。この任せる経営を具体的な組織にしたのが、事業部制である。事業部制とは、例えばラジオは第一事業部、ランプは第二事業部、電熱器は第三事業部というように、従来一本化されていた仕事を三つの部門に分け、各事業部に製品の開発から生産、販売、収支の管理までの一貫した権限を委譲し、各事業部を独立採算制にしたのである。(その後数多くの企業が事業部制を採用するようになった)
 何故、幸之助がこのような事業部制を発想することができたのだろうか。理由は幸之助の健康問題である。幸之助は前述のように幼少の頃から虚弱な体質であった。会社が大きくなってきて、仕事量が増えてくると、仕事の一部を信頼できる人に任せないわけにはいかなかったのである。

1万5千人の嘆願書

 終戦間もない昭和21年11月、松下電器が戦時中軍需用品を作っていたことから、幸之助はGHQ(進駐軍)により「公職追放」の対象となり、社長を追放された。この時、追放解除を叫んで立ち上がったのが、結成されたばかりの松下電器労働組合である。「社主松下幸之助は全従業員の大黒柱であり、会社を発展させ、従業員の生活を安定させるためには、どうしても追放解除は必要である」として全従業員の93%が追放解除嘆願書に署名し、1万5千通の嘆願書がGHQに送られてきた。この熱意がGHQを動かし、その後わずか半年で幸之助の追放は解除された。労働組合が経営者の復帰を求める極めて稀なことであった。
 不況下でも従業員を一人も解雇せず、「せめて従業員の給料だけは」と膨大な借金をしながら耐え忍んだ松下電器は、昭和25年の朝鮮戦争特需で息を吹き返すことになる。

後継者選び

 昭和36年(1961)、幸之助はそれまで43年間座り続けていた松下電器の社長の座を、娘婿の正治に潔く譲って引退することを表明した。
「経営の神様」の失敗?として取り上げられるのが幸之助のこの後継者選びである。公器である企業の経営者の後継者は、その組織に相応(ふさわ)しい能力を持った人がなるというのが鉄則である。しかし、幸之助は世襲人事で、娘婿の正治を松下電器社長の後継者に選んだのだ。
 何故幸之助はこんな判断をしたのか。理由は、これも前述した幸之助の健康問題である。幸之助に限らず松下家は、虚弱な体質の家系である。このころ幸之助の後継者は、長男が病死したため、娘の幸子一人になってしまった。そこで幸之助は大々的に幸子の婿探しをすることになった。その結果、昭和15年(1940)娘婿に決まったのが正治である。正治は、平田伯爵家の出身で、実母は加賀百万石前田公爵の妹と言う名門の出である。正治自信も東京帝國大学法学部を卒業した三井銀行のエリート銀行マンであり、偉丈夫で健康なスポーツマンでもある。
 しかし、松下電器の社長に就いた正治だったが、あらゆる面で未熟さが目に付くようになり、僅か3年で幸之助は営業本部長代理として現場復帰せざるを得なかった。そのため、松下電器は正治の社長時代の13年間、二人の確執と混乱が続いた。とかく、後継者選びは難しい。

経営者以外の活動

 幸之助は経営以外でも幅広い分野で活動している。ここにその一部を記述する。
昭和21年(1946)、公職追放中の幸之助は「経営者が自分の会社の利益だけを考えているのは間違いであり、企業は国家や国際社会との共存共栄を図らねばならない。そして仕事を通じて社会の平和と幸福を実現しよう」という主旨で、PHP(Peace and Happiness through Prosperity)研究所を設立。現在も出版など活動を展開中である。
 昭和55年(1979)、今後日本はますます混迷の度を深めていくと、今日の日本の危機的状況を予見し、この難局を打開するためには新しい国家経営を推進していく指導者育成が必要であるとの想いから、私財70億円を投じて松下政経塾(政経の経は経済の経ではなく、国家経営の経の意である。)を設立。卒業生は政治、経済、会社経営など多くの分野で活躍している。例えば、国会議員の出身学校別数では最多の28人を輩出しており、逢沢外務副大臣は第一期、民主党代表になった前原誠一は第8期の卒業生である。

あとがき

 以上紙面の許す限り、幸之助の考え方や生き様を紹介してきました。、読者の方々それぞれ感じるところは違うでしょうが、「まえがき」でも述べたとおり学ぶの原点はまねるです。自分の人生や経営の参考になるところは大いにまねをしていただきたいと思います。
 幸之助は、平成元年(1989)94年の生涯に幕を閉じました。しかし、彼の生き様は今でも畏敬と尊敬の念をこめて「経営の神様」と謳われています。ここに興味のある調査結果があります。読売新聞が戦後60年を記念して全国世論調査をし、平成17年4月24日付けで同紙に掲載されたものです。その中に「戦後日本の発展に功績のあった人物調査」というのがありました。結果は、1位田中角栄、2位吉田茂、3位佐藤栄作、4位松下幸之助、5位中曽根康弘、でした。政治家に混じって、民間人からただ一人幸之助が選ばれています。このことからも幸之助が経営者の枠を超越した存在として認識され、評価されていることがうかがえます。
 一方、幸之助の評価は、海外のほうが高いという意見があります。例えば1962年(昭和37年)幸之助がアメリカの「タイムズ」の表紙を飾ったことがありました。そのときの紹介は「philosopher」(哲学者というより「哲人」というニュアンス)でした。
 企業には、どこの企業にも企業理念があります。企業理念とは、企業経営における基本的な価値観、精神、信念あるいは行動基準を表明したものをいいます。したがって、経営理念には経営者の哲学が大きく左右します。幸之助の「繁栄を通じて、世界の平和と幸福を達成する」という哲学は、松下電器産業の綱領(後掲)に反映され、松下電器産業の根幹として今日に至っています。
     


綱  領

 産業人ノ本文ニ徹シ
 社会生活ノ改善ト向上ヲ図リ、
 世界文化ノ進展ニ寄与センコトヲ期ス


 上に掲げた綱領は、松下電器産業の事業目的とその存在理由をあらわしたもので、昭和4年松下幸之助が制定したものです、今日に至るまで松下電器産業のあらゆる経営活動の根幹をなす松下電器産業の経営理念といわれています。

 その後の松下電器を見ますと、年を経るごとに幸之助の創業者精神と企業文化は失われていき、業績も平成14年(2002 )史上初の赤字を計上しました。そして、平成14年(2002)に就任した中村社長の元、「破壊と創造」をスローガンに1万2千人のリストラなどを断行し業績をあげていきました。嘗(かつ)て、日本的経営のシンボルだった松下電器も普通の会社になったと言われています。また近い将来松下電器産業がパナソニック(panasonic)になるのも時間の問題かも?


参考文献:
松下幸之助著「実践経営哲学」PHP文庫
松下幸之助著「私の生き方考え方PHP文庫
立石康則著「ソニーと松下」(上)講談社
立石康則著「ソニーと松下」(下)講談社
村田修三著「日本産業経営史」大学教育出版
今西祐行著「偉い人の話」実業の日本社
富樫生他編集「松下幸之助」宝島社

参考資料
2004年の松下電器産業の連結決算概要
売上高   8.4兆円
(国内)  4.5兆円
営業利益  3千億円(3.5%)
税前利益  2.4億円(2.8%)
純利益   5百億円(0.7%)
従業員   4.8万人