古代インド思想と日本
まえがき
日本の文化は中国文化の影響を強く受けています。漢字一つをとってもうなずける話です。ですから、日本は「漢字文化圏」であるとか「東アジア文化圏」であるとか、、あるいは「仏教文化圏」に属するといわれています。 しかし、23歳で来日し、約40年間、日本に滞在したイギリスの有名な日本研究者B.H.チェンバレンは、『ある意味で、日本は、すべてのものがインドのお陰を受けているといってもよい』と言っています。確かに多くの日本人はインドに生まれた仏教の信者ではあるが「ほんとかな?」と疑問視する人も多いと思います。確かにかつての日本人にとってはインドを、いなかという意味の「辺土」、あるいはお釈迦様が生まれた遥かな地という意味を込めて「天ジュク」(ジュクは竹かんむりに漢字の二)と呼んでいたように、はるかに遠い国であり、関心はさほど高くはなかったし、現在もそんなに関心が高いというわけでもありません。そこで今回は、B.H.チェンバレンの言葉の真意を確かめるべく、インドの歴史、文化、思想などを中心にインドの本質を理解し、それがどのように日本に影響を与えていったのかについて話を進めていきたいと思います。
1.古代インドの歴史について
(1)インダス文明
まず、地域的に古代インドを捉えてみましょう。大雑把にいえば、ヒマラヤ山脈の南側からインド洋に突き出したインド半島全体です。面積では日本の11倍以上の広大な地域です。現在の国でいえば、インド、パキスタン、バングラデッシュ、スリランカ、ネパール、ブータンなどの国々が含まれます。 次に歴史的な経緯を見ていきます。古代インドには多数の種族の先住民が済んでいました。代表的なのはドラヴィタ人と言われる人々です。彼等の外見上の特徴は一般的に肌の色が黒く、背が低いが手足が長く、髪はウェーブがかかっているなどの特徴があります。ドラヴィタ人は紀元前5万3千年ころ、アフリカ東岸からインド南西部に移住し、その後北方面、東方面へと広がっていき、最終的にはインド全域に拡散したといわれています。
その後インドに最初の文明が興ります。世界4大文明の一つインダス文明です。この文明はドラヴィタ人によるものと考えられています。インダス文明はBC.2500ころ興り、BC.1800ころ滅亡するまでの約700年間栄えました。場所はインド西部を流れる大河インダス川の中流のパンシャブ地方から下流にかけてです。遺跡としてはモヘンジョ・ダロやハラッパーがあります。これらの遺跡から銅器、灌漑農耕、交易、インダス文字、計画された都市、完備された上下水道、ダスターシュート、後のヒンズー教のリンガ(性器)崇拝、卍の紋章、牝牛の崇拝、地母神信仰、樹木信仰などの痕跡が発見されています。
その中で特に興味深いものは都市の中心に「沐浴場(プールのような水浴び場)」があることです。ギリシャなどの古代都市では都市の中心には神殿があるのが一般的なのに対して大きな違いです。沐浴場とはプールのような水場です。人々はこの水場で水に入り体を清めていたのです。
古代インドの人々は何故沐浴をするのでしょうか? 古代インドにおいては人々は日常生活により身体にいろいろな「穢れ」がついていると考えたのです。この穢れの対象としては一般には、①死に関するするもの、②病気・怪我に関するもの、③血に関するもの、④月経や出産など女性に関するもの、⑤芸能、金融業、皮革、肉屋、葬儀屋、生花屋、清掃業等など特定の職業に関するもの、⑥左手(左手は穢れているので食事などでは使わないなどはインドでは今でも習慣として残っています)、⑦異民族など自らの共同体以外の人(インドでは特にこの意識は強かったようです)などがあげられます。 この穢れの思想は、その後のインド人の心の中に強烈に生き続け、後の身分制度である「カースト制」の成立など、現代のインドの文化にも大きな影響を与えています。インドに限らず、古今東西を問わず、この「穢れ」の思想はあったようです。後に日本にもこのインドの穢れの思想は影響を及ぼすことになっていきます。この穢れを洗い清めるためには沐浴が効果的と考えていたと思われます。このように、沐浴は身体を衛生的にきれいにするということではなく、日常生活で身に着いた穢れを落とすという行為です。 現代でもガンジス川は生活排水が流れ込んだり動物の死体などが浮いている衛生的にはきれいとはいえない川ですが、この川沿いの聖地ベナレスでは今でもガンジス川に入り沐浴している人がたくさんいます。 また、沐浴はさらに進んで解脱の方法の一つとの考えられていったと思われます。
(2)アーリア人の侵入
BC1800年ころ、インダス文明は滅亡します。理由は不明といわれますが、.破壊された都市や住民が虐殺された跡もあることから侵略者に滅ぼされたとみられます。ちょうど同じころ、インド地方に北西からアーリア人が入ってきました。アーリアとは「高貴なるもの」「神聖なるもの」という意味です。アーリア人は自分たちをこう呼んでいたのです。アーリア人の外見上の特徴は「背が高く、色白で、鼻は高く長く、ヨーロッパ諸民族と同系統の言語を話す」などです。アーリア人は「家父長家族、一夫一婦制、部族ごとに、その上に王が君臨しているなどの特徴があります。アーリア人は紀元前90世紀ころからインド北西部のパンジャーブ地方で牧畜を行っていたのですが、大月氏(ダイゲッシと読みます)などに追われて南進してきたのです。そのうち、インド方面に入ってきた人々をアーリア人、イラン方面に入ってきた人々はペルシャ人と呼ばれています。地理的にアーリア人はインドへは、BC1800年ころ北西方面から侵入してきて、土着のドラヴィタ人などの先住民族を征服したり、混血をしながら、BC.1000ころにはガンジス川付近まで到達しました。この間、アーリア人は土着の先住民族などを制圧するための二つの方法を作り出しました。一つは「バラモン教」、もう一つは「カースト制」です。
①カースト制
インドに侵入してきたアーリア人は肌の色で自分たち支配者と先住民である被支配者を区別していました。自分たち肌の白い支配者であるアーリア人と被支配者である色の黒い先住民というような使い方です。そのためこの宗教的身分制度をヴァルナ(「色」の意)と言います。この制度はその後、次の4つに細分化され整備されていきます。一番上はバラモン(僧侶でヴェーダを詠って神に奉げると呼ばれる人々)、2番目はクシャトリア(王、貴族、武人)、3番目はヴァイシャ(商人などの庶民)、そして一番下がシュードラ(被征服民で、インドの先住民だったがアーリア人に征服された人々で奴隷)です。 このようにカースト制は社会を四層の種姓に分割する宗教的身分制度です。ところがこの下にももう一つの身分ができました。「不可触民」という人々です。触ってはいけない人々という意味です。その理由は、不可触民は前段で説明した「穢れ」ている、だから触ると穢れが移ると言うことです。
さらに10世紀ころになると、時の王朝により「ジャーティ」(「出自」・「生まれ」の意、内婚集団、共同体)と呼ばれる身分制度ができました。これは職業ごとに、子は親の職業を世襲しなければいけないという職業世襲制です。その後ジャーティはヴァルナと融合し、2000から3000の身分に細分化されました。
このヴァルナとジャーテイを合わせたヒンドゥー教にまつわる身分制度全体を我々は「カースト制度」と呼んでいます。「カースト」とは、もともとポルトガル語で「血統」を表す言葉です。外国人がインドの身分制度をそう呼んでいるわけです。しかし、インドではヴァルナであり、ジャーテイと言っています。
カースト制は世界で最も厳しい身分制度のひとつとして、現在でもインド社会に深々と根づいています。
②バラモン教=多神教
インドに侵入してきたアーリア人は先住民を隷民として服従していきましたが、そのために大いに有効だったのが前述のカースト制と「バラモン教」です。アーリア人の中にはバラモンと呼ばれる人々がいました。彼らは王の要望により祈祷と呪文により戦いを勝利に導いたため高い評価を受けました。バラモンたちはさらに自分たちの地位を高め独占するために祈祷や呪文をより複雑にしていきました。あまりにも複雑化したため、これらの儀式、讃歌、祈祷文などを集大成しました。これを「ヴェーダ」といいます。ヴェーダはもともとは「知識」という意味でしたが、その後、宗教的知識を内容とした聖典を「ヴェーダ」というようになりました。このヴェーダを司る階級がバラモン階級であったことから、この宗教をバラモン教と称し、ヴェーダなどをバラモン経典といいます。 その後ヴェーダは次々に編纂されていきました。その中でも代表的なヴェーダは紀元前1200年前に編集されたリグ・ヴェーダでバラモン教の聖典といわれ、インド哲学の原点といわれています。その後、3000年間、インド哲学はいろいろな変遷を経て今日に至っています。蛇足ですが、バラモン教は日本の神道と同じように多神教です。ですからヴェーダにはインドの自然現象を擬人化したたくさんの神々が出てきます。代表的な神には先ず雷神の「インドラ」。この神は、巨体で、武勇に長け、戦車に乗って外敵を倒します。次の神は、火神の「アグニ」。この神は大空にあっては太陽であり、家庭にあっては人間と神々を仲介する役割を持ち、その力は闇を払い悪魔を倒します。次の神は司法紳「ヴァルナ」です。役割は自然界の秩序の維持や人間の不正を断罪するなど、幅広い領域に及んでいます。この三神の他バラモン教においてはたくさんの神々がいます。
(3)ウパニシャド哲学
紀元前6世紀ころになるとインドは都市国家の産業や交易が盛んになり発展していきました。すると「クシャトリア」と呼ばれる王、貴族、武人の階級や、「ヴァイシャ」と呼ばれる商人や庶民の階級が力をつけてきました。彼らは形式を重んずるバラモン教に物足りなさを感じていきます。そして彼らは 密林の奥地に入って、難行苦行をして真理の探究に努めました。この人たちを紗門と呼びます。紗門たちは新しい哲学を生み出していきました。それが「ウパニシャド哲学」といわれるインド哲学の原点の考え方です。ウパニシャド哲学の特長は、次の2つです。第一は、「輪廻転生」「業」「解脱」です。第二は梵我一如です。
①輪廻転生・業・解脱
まず、「ウパニシャド哲学」第一の特徴は、輪廻からの解脱、即ち悟りを開くことです。インド人は「人は死んだらどうなるか?」という問いに、「輪廻転生」であると考えました。輪廻転生とは、人は生と死を永遠に繰り返すと考えたのです。我々、命のあるものは生と死を、永遠に回転し続ける車輪のようなものと考えたのです。 そして、インド人は死んでもまた生まれ変わることを「苦」と思ったのです。なぜならば、今、生きている世の中は飢饉、疫病、戦乱、天災、それに厳しいカースト制による差別などがあり、あらゆる不幸が人生にはついて回り、人生とは苦痛そのものであると感じているからです。因みに、中国人は生まれ変わることを「幸せ」と捉えます。日本人の中にもそれに近いものを感じている人は多いのではないでしょうか。
次に、「死んだら人は何に生まれ変わるのか?」の問いに、「その人が生きている間にどんな行いをしたかで決まる」としています。生きているというということは何かの行為を行っているわけで、その行為を「業」といいます。悪い業を積めば虫けらに生まれ変わるかも知れないし、良い業を積めばましな生き物、例えば人間などに生まれ変わるかも知れない。(前述した沐浴はこの業により発生した「穢れ」を体から取り除く行為というわけです)。しかし、なまじ人間に生まれ変わったとしても、やはり人間の一生は前述のようにさまざまな苦であるわけです。そのため、インドの人々の願いはこの輪廻の輪から抜け出して二度と生まれ変わらずにすむことであると結論づけたのです。この輪廻の輪から抜け出すことを「解脱」と言います。解脱がインド人の最高の願いなのです。
輪廻転生・業・解脱の思想は仏教などと一緒に日本に日本伝えられたようで、その後の日本人の考え方に大きな影響を与えています。特に源信(942-1017、平安時代中期の天台宗の僧)が985年に著した「往生要集」(浄土教の観点より、多くの経典・論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書で、1部3巻からなる)。内容は、この娑婆世界は穢れた国土(穢国)であり、あの世は阿弥陀如来の極楽世界は清浄な国土であるから、死後そこへの往生をするには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説いたのです。
また、この書物で説かれた厭離穢土、欣求浄土の精神や、地獄・極楽・六道などの概念は日本人の中に広く、深く根付いて今日まできています。
ここに六道という表現が出てきましたが、インドにおける仏教以前の輪廻転生の考え方は、人間は死後生前の行い(これを業といいます)により、天界、人界、地獄界の3界を輪廻するというものでしたが、仏教においてはさらに発展し、人間は生前の業により死後、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道を輪廻するとうい六道輪廻となりました。また、六道輪廻の考え方から、六道それぞれに救いを求めている衆生を救済するためにそれぞれに地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が全国の寺院に見受けられます。六地蔵信仰はさらに村はずれなどの結界にある道祖神信仰へと変遷していったようです。
②梵我一如
ウパニシャド哲学第二の特徴は、「梵我一如」です。ウパニシャド哲学では、宇宙には根本真理・根本原理が存在すると考えました。これを「ブラフマン (Brahman) 」といいます。これを中国人は「梵(ぼん)」と漢訳しました。
一方、自分も宇宙の一部であるわけで、自分の中にも個体を支配する根本真理・原理があるはずであると考えました。この自分の中のなかにある根本真理・根本原理を「アートマン(Atman:生気、霊魂、身体、自己自身、自我等の意)といいます。中国人はこれを「我(が)」と漢訳したのです。
次に「アートマン(我)」は「ブラフマン(梵)」と同じではないかと考えました。これを「梵我一如(ぼんがいちにょ)」といいます。さらにアートマン(我)がブラフマン(梵)と同一であることを知ることにより、自由になり、あらゆる苦しみから解き放れて永遠の「解脱」に至ろうとしたもので、輪廻とともにウパニシャド哲学の基本原理の一つとなっています。しかし、人はそれぞれ自分の中にアートマンを持っているのですが、それをなかなか自覚できないでいます。それは自分の心が欲望や余分な物質で曇っているからだろうと考えました。そのため、この欲望や余分な物質を取り除き、自分のアートマンを自覚するためにいろいろな修行を行いました。例えばジャイナ教では不殺生を徹底していますし、ヨーガでは瞑想を行うなどは有名です。修行の結果、自分のアートマンを自覚すると、それはブラフマンと同一なわけですから二つは一体化します。一体化するということは自己が消えて宇宙と一体化することになります。自己が消えるということは自己が持っている業がなくなるわけで、業がなくなるということは輪廻の原因が消えるわけで、自己はもう輪廻の輪から抜け出すことができることになります。これを「解脱」といい、これがウパニシャド哲学の最終目的となります。
この「ウパニシャド哲学」は紀元前5世紀ころのことなのですが、バラモン教、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教など、その後のインドの哲学・宗教など全般に大きな影響をあたえていき、現代においてもインド人の常識となっています。
(4)仏教
密林の奥地に入って、難行苦行をして真理の探究に努めた修行者の中に、仏教の開祖のお釈迦様(本名はガウタマ=シッダールタ(前563~前483頃)もいました。お釈迦様は当時インドにあった16か国の一つである、カピラ国の王子として何不自由なく暮らしていたのですが老いの苦しみ、病気の哀れさ、死のはかなさなど人生の苦しみを知り、これらの苦しみを解決するためにはどうすればよいのかを悩み、29歳の時に妻子を棄てて出家し、旅に出ました。そして、密林に入り断食や座禅などの難行苦行をしたのですが悟りを開くことはできませんでした。失意のうちに密林を出たお釈迦様はブッダガヤーの地の大きな菩提樹の下で一切の雑念を棄て瞑想をして、遂に悟りを開き仏陀となることに成功しました。このような自分の修行の体験から、快楽や苦行の極端の生きかたではもろもろの悩みや苦の解決にはつながらず、これらにとらわれない生きかた、即ち、「中道」の生きかたこそが悟りへの道であることを発見したのです。お釈迦様が35歳の時です。お釈迦様が悟られたのは、「縁起の理法」と呼ばれているものです。縁起とは「全ての物事は常にお互いに関係しあっていて成り立っている」ということです。このことは逆に見れば「世の中の全ての物事は独立して存在しているものはない」ということになります。ですから、関係しあっている条件が変われば何事も変化していくことになります。全ては縁起しているがゆえに空であり無常なのです。この縁起の理法を正しく理解し、縁起に則った考えを」実践することを四諦・八正道で説いています。四諦とは、苦諦(人生は苦であるという真理)、集(苦の原因を明らかにするという真理)、滅(苦の原因を滅する方法で八正道を説いています)の四つです。八正道とは正見(正しいももの見方)、正思惟(正しい思索)、正語(正しい言語)、正業(正しく生きる)、正命(正しく暮らす)、正精進(正しい努力)、正念(正しい理想)、正定(正しい精神統一)の八つです。このお釈迦様の悟られた
2.インドから日本へ
以上、古代インドの歴史を大まかに見てきましたが、この中から特に日本人に影響を与えたと思われる、穢れの思想、因縁生起、七福神の三点に絞ってみていきます。
(1)穢れの思想
前述のように、古代インドでは死、出産、血液などは穢れているとする「穢れ」の思想がありました。
この「穢れ」の思想は仏教伝来と一緒に日本に伝えられたと言われています。仏教伝来は平安時代の538年に百済の聖明王が欽明天皇に仏像や経典を献じた時と言われていますので、このころに穢れの思想も伝えられたということになります。その後、仏教は日本全国へと広がって行ったわけですが、同じように穢れの思想も浸透していったようです。蛇足ですが、当時の僧は天皇の周囲の身分の高い者がなっていました。そのためこれらの僧たちは国家鎮護や天皇・貴族のために加持祈祷を行う一方で、神祇祭祀の主催者である天皇に仕えるために身の清浄さを維持する必要がありました。そのため葬儀など穢れに関わる行事には消極的でした。そこで葬儀など穢れにかかわる行事は「下級僧侶」や「遁世僧」と呼ばれる「聖(ひじり)」が行うようになっていきました。こういう経緯があり現代でも葬儀などの穢れにかかわる行為はお寺で行うというようになっていったのです。
しかし、インドの穢れの思想が流入する以前の日本にも穢れの思想は存在しました。例えば、邪馬台国の奴婢制(奴は男の奴隷、婢は女の奴隷)や奈良時代の五色の賎(7世紀後半に中国を模倣して導入された律令制によって、採用された身分制度で、国民を良民と賎民とに大別する良賎制を定め(645年制定の良賤の法)等です。
また、日本最古の歴史書である古事記(712年(和銅5年)太安万侶)の中に「病気で死んだ妻のイザナギに会いたくなった皇祖神イザナミは死後の世界である黄泉の国(よみのくに)へ行きますが、「見てはいけない」というイザナミとの約束を違え、醜いイザナミの亡骸をみてしまい、黄泉の国から命からがらこの世に逃げ帰った([蘇る]は黄泉の国から帰るの意からきた言葉)イザナミノミコトは、「わたしは、とても汚く穢(けが)れた醜(みにく)い国へ行ってしまったので、みそぎ(禊ぎ)をしなければならない」と、おっしゃって、九州の日向(ひゅうが=現在の宮崎県北部)の「橘の小門の阿波岐原(たちばなのおどのあはきはら)」にお出ましになり、みそぎをなさいました・・・」という記述があります。蛇足ですが、この禊の時にたくさんの神々が生まれたといわれています。禊の最後に左の目をお洗いになった時に出現したアマテラスオオミカミ(天照大御神)、右の目をお洗いになった時に出現したツクヨミノミコト(月読命)、鼻をお洗いになった時に出現したスサノオノミコト(須佐之男命)ということになっています。
このように日本古来の穢れは賤視(上から下へ見下す見方)する日本の穢れの思想に対し、外来の穢れの思想は被差別民を不浄視(穢れ視する見方)へと変化して行ったのです。江戸時代の身分制度として士農工商がありますが、実はその下に賎民という人々がいました。賤民は穢多を生業としていました。穢多の明確な基点は明らかになっていませんが、一般的には穢れが多いと言う意味で、例えば、逃亡農民に由来するという説や、皮革加工などに従事する部民という説、古代の被征服民族とする説などがあり、穢多などの被差別民の起源は一様ではなく、雑多な起源を持つ集団であったと思われます。この穢多は非人(犯罪者など)と違って、職業に関わりなく親子代々承継されましたこの穢多差別は平安時代にはじまり、江戸時代に確立され、明治時代に廃止されるまで存続しました。この穢多を表すものに「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。穢多の子はいつまでも穢多である」というのがあります。明らかに身分差別的内容と言わざるをえません。
この穢れの思想は現代でも見受けられます。穢れている状態を「ケ」と言います。「ケ」は一般的には日常、あるいは日常で穢れた状態をさしています。例えば、今ではほとんど使われていませんが、昔、普段着をケ着といったそうです。また、日本では今でも、正月などに滝に打たれるという行為や、汚職などで落選した議員が次の選挙で当選した時などに「禊を受けた」などと使いわれています。禊とは体に付いた穢れを落とすことを言います。このように、今でも私たちの周囲にはたくさんの穢れの思想や行事などが残っています。一方、この穢れ(ケ)の反対の概念が「ハレ」です。ハレは一般に、おめでたい非日常の状態をさしています。例えば、結婚式や成人式などは「晴れの日」といいますし、銀座をパレードしたオリンピックのメダリストたちの姿や、ips細胞の発見でノーベル賞授賞式に出席した山中伸也教授の姿を「晴れ姿」といいます。また、学校を卒業して新たに社会人となる場合などには「晴れの門出」といいますし、役者が憧れていた大きな舞台に立つことを「晴れ舞台」といいますし、七五三のお祝いに着る着物を「晴れ着」などと使います。犯罪を犯して刑期満了し、出所した人は「晴れて自由の身になった」などと現代の日本でも結構使われています。
最後にもう一度「穢れ」と「汚れ」の違いを確認しておきますと、どちらも汚れには違いないのですが、「汚れ」が一時的・表面的な汚れであり洗浄等の行為で除去できるのに対し、「穢れ」は永続的・内面的汚れであり「清め」等の儀式執行により除去されるとされる汚れを言います。
(2).因縁生起
仏教は今から2500年ほど前にインドのお釈迦様が開いた宗教で、日本へは6世紀半ばに伝来したと言われています。その後、仏教は日本人の精神・文化などにいろいろ影響を与えてきました。中でも、もっとも大きな影響を与えたのが、因縁生起(「いんねんしょうき」と読みます)の思想であるといわれています。お釈迦様の教えを書いた小部経典の自説経1,1-3菩提品には「これがあれば、かれがある。これが生ずれば、かれが生ずる。これがなければ、かれがない。これが滅すれば、かれが滅する」と書かれています。意味は「世の中のものはすべて縁りて起っている」ということです。今少し詳しく言うならば「この世における一切の現象・存在は、全て因(直接原因)と縁(間接原因・条件)の二つの要因によって存在している」ということです。別な表現をすれば世の中には「独立の存在」とか「絶対の存在」というようなものはないということになります。因縁生起を分かりやすく説明する例として、「私がこの世に生まれたのは、父と母が結婚したからです」。これが直接の原因、即ち「因」です。そして、父と母が生まれるためには父と母それぞれの父と母(おじいちゃんとおばあちゃん)がいたからです。これが間接的な条件である「縁」というものです。但し、縁にはおじいちゃんとおばあちゃん以外にも、家族、親戚、知人など無数の人の縁があったから私は存在しているということも忘れてはいけません。因と縁が一つでも違えば別な私になってしまいます。
原因や条件が変われば事象もさまざまに変化することになります。ですから仏教ではこの世のあらゆるものは「仮の存在」であるというのです。
また、お釈迦様の教えに「法を見るものは縁起を見る、縁起を見るものは法を見る」とあります。因縁生起を正しく理解したものは悟ったことになるということです。
この因縁生起の考えは日本人の精神性に大きな影響を与えてきたのですが、いくつか例を見てみましょう。日本では昔から、「おかげさま」という言葉を使います。「お陰」とは、例えば砂漠を旅している人がオアシスを発見し、その木陰で一休みしている様です。旅人は一刻の涼をとることができ、その泉で喉を潤すことができ、場合によっては一命を永らえることができるでしょう。このように、誰でも、いつもどこかで何らかの形で、お陰を蒙って生きているのです。つまり、世の中のものは全てお陰を受けるというかかわりの中で生きているということになります。
また日本人は「思いやり」ということを大切にする民族であるといわれています。常に相手の立場に立って物事を考えます。また、日本人は最近よく「共生」という言葉を使います。共生とは人間はもちろん動物、植物、はたまた山川草木に至る万物と命を共にするということです。
また、3.11の大震災後、よく使われる「絆」という言葉もまさしく因縁生起そのものです。
仏教の教えの中に「縁起を見るものは法(縁りあいながら存在しているというという人間本来の姿、即ち縁起しているという真理を)を見る、法を見るものは仏を見る(仏を見るとは仏となったということで、即ち悟りを得た、ということです。)と言っています。たとえばいつも人にやさしく接することができる人はすでに、悟りを得ているということです。
このように因縁生起は日本人の精神に大きな影響を与えてきたのですが、それだけに誤った使い方もたくさんあります。例えば、 因縁生起は略して縁起(えんぎ)とよばれたりしますが、昔から日本で使われている
「茶柱が立つと縁起がいい」とか、「仏滅に結婚式をあげるのは縁起が悪い」とか、相撲取りが「昨日勝ったので縁起を担いで今日は髭をそらなかった」などはみな誤った使いかたと言えます。
因縁生起によれば、現在起こっているすべての事象はそれまでの何らかの因と縁の結果ということは、現在の私たちの言動もそれが原因となり、将来何らかの結果をもたらすということになります。そういう意味では「因果関係」があるという言い方も出来ます。ここでいう言動はあくまでも個人の言動ですから、古くから日本でつかわれてきた「親の因果が子に報い」というのはこれも誤用ということになります。
また、因縁生起は、「因縁」と言われることもあります。しかし、我が国では古くから喧嘩の原因として「因縁をつけられた」等という言い方をしますがこれも誤用と言わざるをえません。
一般に仏教は難解であるといわれています。中でも難しいといわれているのが、この 因縁生起です。ネット上の次のwww.tibs.jp/news/105/105-02.html によくまとめてありましたので、参考に一部抜粋させてもらいました。 |
日付:平成15年12月6日「仏教文化」105号より |
「縁起」 について述べよ
B組20番近藤
釈尊は、 ブッダガヤーの菩提樹下で縁起の道理を悟ることで仏陀となったとされる。 よって、 縁起説は仏教の根本教理をなすものであるといえる。 原始仏典の中に、 「縁起を見る者は法を見る、 法を見る者は縁起を見る」 とあるように、 法は縁起説をもって代表され、 縁起を正しく見る者が仏教についての正しい理解や体得を得られるのである。
では、 その縁起の道理とは、 どのようなものであろうか。 現存する最古の経典とされる 「スッタニパータ」 と並ぶ貴重な原始仏典である 「サンユッタ・ニカーヤ」 (パーリ語経典) の中で釈尊は、 「私の悟ったこの心理は深遠で、 見難く、 難解であり、 しずまり、 絶妙であり、 思考の域を超え、 微妙であり、 賢者のみよく知るところである。 ・・・人々には<これを条件としてかれがあること>、 すなわち縁起という道理は見がたい。」 と述べ、 縁起の道理を理解し、 体得することがいかに困難であるかを述べている。
縁起とは 「縁によって生起すること」、 つまり 「種々の条件によって現象が起こる起こり方の原理」 のことである。
この原理が我々にとって最も理解しやすいのは、 日常の心の動きとして縁起の流れを追うことである (「連縛縁起」)。 代表的な縁起説である 「十二支縁起」 の流れも、 我々が日常的に経験している無明から苦しみへの十二支の流れを一つずつ辿ることで、 容易に理解することができる。 実際、 原始仏教で最も多く説かれたのは、 この連縛縁起である。
しかし、 縁起説はここに留まらず、 ①時間軸、 ②空間軸、 ③関係軸の三つの軸において展開されることになる。 第一の時間軸においては、 個人の日常から、 過去世・現在世・未来世の三世にわたる縁起 (「業感縁起」) へと、 さらには遠い過去から遠い将来にわたる縁起 (「遠続縁起」) へと展開される。
第二の空間軸においては、 個人の日常の範囲から、 縦横無尽に相互関係をもつ周囲の世界との縁起 (「無尽縁起論」) へと、 さらにはそうした周囲の世界を構成する主体としての要素にまで還元した縁起 (「六大縁起論」) へと展開される。
第三の関係軸においては、 日常で見られる 「因」 から 「果」 への一方向の進行 (例、 無明から苦しみ) から、 双方向の関係 (「相依」) へと展開される。
このように、 個人の日常の心の動きとしては容易に理解できた縁起の道理が、 時間軸、 空間軸、 関係軸が展開されるにつれて徐々に理解することが困難となり、 ましてや体得することなど至難の業と言わざるを得なくなる。 釈尊が 「縁起という道理は見がたい」 と述べた通りなのである。
しかし、 この困難な道のりを辿ることこそ、 仏教の理解と体得のために、 そして人間としてどうあるべきかを明らかにするために必要なのである。
われわれ個人の日常の心の動きを理解することも大切ではあるが、 時間軸と空間軸を加味することにより、 社会や歴史への理解が深まる。 社会や歴史で縦横無尽に展開される縁起を理解することで、 個人と個人、 個人と社会、 社会と環境、 環境と宇宙といった広がりの中で因果関係をとらえることが可能となる。 こうして、 一人では存在しえない自分が明確となり、 生かされていることへの感謝へとつながるのである。
この上で、 さらに重要なのが関係軸の展開、 すなわち双方向性の加味である。 あらゆるものが無限の相互 (=双方向の) 依存関係の中で自由に作用し、 流動し合っているとすると、 あらゆるものは無限の因縁によってのみ在り得ているということになる。 あらゆるものが無限の相互依存関係にあり、 あらゆるものが無限の因縁によってのみ在り得ているとすると、 そうした因縁なくして、 それ自身として存在するもの (「自性」) は存在しないということになる。 日常の心の動きも、 その根底にある私そのものも、 他人、 社会、 環境、 宇宙すらも、 すなわちこれまでの縁起に関する考察に登場したものすべても、 それ自身として存在しないということである。 これを、 「自性」 が存在しないということで 「無自性」 と呼び、 その思想は 「空」 に直結する。 こうして 「縁起↓無自性↓空」 の連結が確立され、 「諸法は空すなわち無自性であるから縁起し、 また縁起するから自性をもたず空である」 ことが確立する。
ここに縁起の本質が見られるように思われる。 縁起を考察することにより、 自分の日常の心を理解できるようになる。 さらに縁起を考察すると、 その自分は時間・空間を越えた縦横無尽なものに生かされていることを理解できるようになる。 しかし、 そこでとどまってしまっては、 自分に有益な因縁のみを大切にする、 功利的で、 自我に執着した、 誤った縁起の体得にもつながりかねない。 縁起を真に理解するということは、 自分自身も空であることを理解するということである。 自分が空であるということにもとらわれず、 空である自分をさらに空にして (すなわち二重否定して超越した肯定に導いて)、 とらわれない、 自由な自分を発見する。 とらわれず、 自由な自分として、 いのちの一瞬一瞬に感謝し、 同様のいのちを持つ 「一切の生きとし生けるものは、 幸せであれ」 と願うようになる。 ここに至って、 縁起の理解を通じて、 仏教者、 人間としていかにあるべきかが明らかになるのではないか。
<参考文献>「仏教の基礎知識」水野弘元著、「ブッダの生涯」 中村元著、「岩波仏教辞典」 中村元共著、「バウッダ」 中村元・三枝充悳著
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(3)七福神(信仰)
七福神とは恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁才天、福禄寿、寿老人、布袋の福をもたらすという七人の神様を言います。この祭祀の方法は外国にはありませんから日本独特の仕方です。この七福神の起源をたどると、大黒天、毘沙門天、弁才天の三神がインド、恵比寿が日本、福禄寿、寿老人、布袋の三神が中国起源の福神です。このように思わぬところにインドの神が登場します。そこで、インド起源の3神を中心に七福神について紹介していきます。この七福神信仰は室町時代末期にはじまったといわれています。当時は応仁の乱などで社会が混乱し大変な時代だったようです。そのため庶民は大変苦しい思いをしていました。しかし、それまでの宗教は国家鎮護や五穀豊穣を願うものでしたのでしたので庶民のニーズを満足させるものではありませんでした。そんな時に、幸運、福運、財運などあらゆる福をもたらすという七福神が人々の心を捉え広く受け入れられていったようです。
といっても、最初から現在の七福神の形をしていたわけではありません。最初は関西の商家などで福をもたらすということで恵比寿と大黒天の二福神を祀っていたようですが、その後、弁財天を加えて三福神となり、さらに毘沙門天を加えて四福神となりましたが、四福神では縁起が悪いということで布袋和尚を加えて五福神にしました。その後だいぶ経ってから福禄寿、寿老人が加えられ七福神になったといわれています。このように七福神のメンバーはその時代により何度か入れ替わったようです。例えば福禄寿の代わりに吉祥天を加えようとか、寿老人に代えて架空の動物にしようとしたり、七福人に福助を加えようとしたりしたようですが最終的には現在の七福神におさまったようです。七にこだわったのは仏教経典の「七難即滅七福即生」の教えによった中国の「七林の七賢」にちなんだとか諸説あるようです。さて、最近は不況のせいかいろいろな福をもたらすといわれる「七福神巡り」と称する七福神を祀ってある神社仏閣を廻る参拝方法がブームのようです。現在の形の「七福神巡り」は江戸時代に始まったといわれています。そのきっかけは天海僧正の七福神信仰の奨励だといわれています。天海僧正は恵比寿は清廉、大黒天は有徳、毘沙門天は威光、弁才天は愛嬌、福禄寿は人望、寿老人は寿命、布袋は度量を表しており、自分はこの七徳により治世を行ったので、みんなもこの七つの徳をもった七福神を崇めるようにというわけです。その結果江戸時代には七福神巡りが全国的に大ブームとなったのです。このような七福神巡りは現在では全国で80ヶ所とも90ヶ所ともいわれています。
七福神に関連したものにもう一つ「宝船」があります。宝船は金・銀・珊瑚などの宝を満載した帆船で、これに七福神が乗っているという大変縁起がよいものです。この宝船を描いた絵を大晦日の夜から元旦にかけて枕の下に敷き良い初夢を見ようという風習です。江戸時代の中期ごろ流行りましたが、現代では何も乗っていない宝船の絵を求め、それに七福神をめぐりスタンプを押してもらい七福神の宝船を完成させるという七福神巡りもあるようです。 ここで七福神について簡単にまとめてみますと次の表のようになります。
名称
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起源 |
福徳 |
天海僧正による徳目 |
祀られている代表的な神社仏閣 |
恵比寿天 |
日本 |
商売繁盛の神様 |
清廉 |
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大黒天 |
インド |
豊作の神様 |
知足 |
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毘沙門 |
インド |
勝負の神様 |
威厳 |
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弁才天 |
インド |
学問と財福 |
愛敬 |
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福禄寿 |
中国 |
福徳と幸福の神様 |
人徳 |
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寿老人 |
中国 |
長寿と幸福の神様 |
長生 |
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布袋和尚 |
中国 |
開運、良縁、子宝の神様 |
度量 |
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①恵比寿
恵比寿は釣竿を持ち鯛を抱えた福々しい姿をしています。その姿があらわすように、もともと漁民の間で信仰され始めたと考えられています。しかし、今では恵比寿は商売繁盛の神様として、大黒神と共に七福神の中では最も広く親しまれている福神です。 恵比寿は他に夷・戎・恵美須などと表記されたりします。また、関西では親しを込めて「えべっさん」の愛称で呼ばれたりしています。七福神の中で唯一起源日本の神様です。
恵比寿の起源ははっきりしませんが、昔は恵比寿は「夷」と書いたようです。「夷」とは中国では日本などを東方の未開の地という意味で「東夷」などと使いましたし、日本でも幕末に天皇を敬い外国人を打ち払うという意味で「尊王攘夷」などと使いました。また、有名な民謡「江差追分の一説に「・・・あれが蝦夷地の山かいな・・・」という一説がありますが、ここでいう蝦夷地は北海道をさします。いずれの場合にも夷はよそ者とか外国人をさし、しかも、さげすんだような使いかたです。
しかし、もっと昔の日本の漁村では、夷(えびす)は海を渡って遠方から来た人をさします。しかも、その人たちは福を運んでくるという捉えられ方をしていました。ですから夷は客神(まろうどがみ)、寄神(よりがみ)として信仰されていたようです。外から来るものは人ばかりでなく、海岸の丸い石や漂着物、時には流れ着いた死体までも「えびす」とよび、大漁祈願の信仰の対象としたようです。このようにもともと恵比寿は漁民の間で漁業の神さま豊漁の神様として信仰されていたようです。
一方、恵比寿は記紀伝説にも登場します。記紀によれば恵比寿はもともとは「いざなぎのみこと」の三男の「蛭子神」だといわれています。蛭子神は身体に障害があったため、3歳のある日、小さな船で九州日向の里から流されたと記しています。記紀にはこの先の記述はありません。ところが兵庫県西宮市にある夷神社の資料によれば、流された蛭子神は流れ流れて摂津国西宮(現在の兵庫県西宮市)の武庫の夷神社に漂着したというのです。蛇足ですが夷神社は現在「西宮神社」といわれています。毎年1月10日午前6時に開門と同時に参道を駆け抜ける福男選び有名です。さて、蛭子神は「夷三郎殿」、「夷三郎大明神」、「戎大神」と称されて夷神社の祭神となり、豊漁や航海の安全、交易の守護神として祀られるようになったとのことです。その後、夷神社の氏子たちは操り人形などを使って恵比寿の福徳を全国に宣伝して回った結果、恵比寿は七福神の中では大黒天とともにもっとも人気の福の神となったといわれています。 その後、海の神様恵比須は農民にも信仰されるようになってきました。それまで農民の間では神様は春になると山から下りてきて田の神となり、秋になると山に行き山の神となるというように信じられていました。遠方からやってきて福をもたらすという海の神様恵比須と、里と山をいたり来たりする里の神と山の神をダブらせたのでしょう。そんなわけで、恵比須は農民の間で山の神、里の神、そして豊作の神、農業の神となっていきました。
また、恵比須は釣竿を持ち鯛を抱えている姿から、 「暴利をむさぼらぬ清廉の心を象徴」しているといいます。網を使って一網打尽に漁をするのではなく、竿で必要なだけ少しずつ釣をする地道さが喜ばれ、恵比須は商売人の神様、商売繁盛の神様にもなりました。
このように、恵比寿神の信仰は全国に広がっていき、今では七福神の中で大黒神と並んで人気の神様になっています。ちなみに広辞苑で恵比寿と索引すると、七福神の中でももっとも多い30以上の関連語彙があります。こんなところを見ても、恵比寿が広く知られしたしまれていることが明かります。代表的なものを次に幾つか書き出してみました。
【恵比寿顔】恵比寿のようにニコニコした顔つき。
【恵比寿(東京の地名)】 東京都渋谷区南部の地区。 地名の由来はヱビス ビールの工場に由来する。1890年(明治23年)、この地(当時・目黒村三田)に工場を 置く日本麦酒醸造会社(現在のサッポロビール)がラベルにえびす様をあしらった「恵比寿ビール」を発売。1901年(明治34年)、恵比寿ビール出荷専用の貨物駅として山手線に恵比寿駅が開設されてから、徐々にこの駅とビール工場の周辺が「恵比寿」と呼ばれるようになった。恵比寿ガーデンプレイスはこのビール工場の跡地を再開発したもの。(ttp://d.hatena.ne.jp/keyword/%B7%C3%C8%E6%BC%F7より)
【恵比寿講】商家で商売繁盛を祝福して恵比寿をまつること。1月10日、1月20日や旧暦11発20日などに行われている。
②大黒天
大黒天の姿は頭に烏帽子を被り、右手に槌を持ち、左手で背中に背負った大きな袋を支えて、柔和な顔をして、2俵の俵の上に乗っている福の神です。御利益としては有福・食物・財福・出世などです。七福神の中では恵比寿と人気を二分しています。
起源は一寸複雑で、インドの神様と日本の神様が合体した神様ということになります。
まず、インド起源です。古代インドのヒンズー教のシバ神にその起源を発します。(シバ神はシバの女王と混同されますが、両者はまったく別人です。シバの女王は紀元前10世紀ころの中近東あたりにあったシバ王国の女王ベルギスです)シバ神はブラフマー、ヴィシュヌと共にヒンドゥー教三大神の一人です。その容姿は髪の毛が逆立ち、顔は怒りに溢れ、体は青黒い色をした実に恐ろしい破壊の神様、戦闘の神様なのです。何故シバ神が青黒い体をしているのかは定かではありませんが、インド神話では、大昔世界が滅びるというような出来事があり、そのときに毒が出たそうです。シバ神は世界を救うためにその毒を飲み込んだところ体が青黒くなったといわれています。その後、仏教に取入れられたシバ神はマハーカーラ(漢訳では摩訶迦羅)と呼ばれるようになりました。マハーカーラとはサンスクリット語で「偉大な黒い者」という意味だそうです。仏教に帰依したマハーカーラは、台所の柱に祀れば、何人の来客があっても出す食物に困らないという御利益があるということで、「台所の神」、「飲食を豊かにする神」として信仰されました。破壊の神がどうして台所の神様になったかそのいきさつは分かっていません。
その後、マハーカーラは中国に伝わりました。中国に伝わったマハーカーラは偉大な黒い者という容姿からでしょうか「大黒天」と漢訳されて、やはり台所の神として祀られました。中国での大黒神の姿は小さな床机に腰をかけ、手に金の袋を持っていますが、この姿が現在の日本の大黒天の形の原型になっています。
この大黒天を最初に日本に伝えたのは平安時代の僧で天台宗を興した最澄(767-822)といわれています。そのため多くの天台宗の寺院の厨房には大黒天が祀られています。大黒天は台所に飾っておけば食べ物には困らないということで日本でも「主婦の神」、「主婦の守護神」、そして「家の守護神」と変遷しながら急速に全国に広まっていきました。
何故、このように大黒天が広がっていたのか?その理由の一つにに大国主命(おおくにぬしのみこと)の存在があります。大国主命はご存知のように古代日本を記した記紀に登場する五穀豊穣の神様で出雲大社の主です。この大国主命は庶民の間では大国様(だいこくさま)と呼ばれ崇拝されていました。この大国様(だいこくさま)と大黒神(だいこくしん)の語呂が同じであったため大黒天イコール大国主命と混同され習合して全国に広まって行ったためといわれています。また大国主命は全国を修行して廻ったといわれていますが、その時の恰好が衣類や日常品などを大きな袋に詰めて担いで回ったといわれていますが、その容姿も小さな床机に腰をかけ、手に金の袋を持っている中国から伝わった大黒天の容姿に似ているという点も大黒天と大国主命の合体習合の一つの理由だろうと思われます。現在の七福神としての大黒天は烏帽子を冠って2俵の俵の上で袋を背負っていますが、原型は中国の大黒天の形が日本で進化していったものと言えます。さらに、大黒天と大国主命の両者の御利益も食べ物関係と似ていることも両者の習合合体の理由の一つにあります。
そして、御利益も大黒天の持っている小槌は振れば何でも出てくるし、背負っている大きな袋は無尽蔵の財宝を表すという容姿から世の中に商業が興ると「商業の神様」としても商人から信仰されるようになりました。
また、大黒天が持っている小槌の「槌」は「土」に通じますし、土、即ちたんぼ(田)は作物(宝)を生み出すもとになる、宝(たから)は田から(たから)出てくるということで、大黒天は農民の間では豊作の神様にもなっていきました。。
このように大黒天信仰は、当初の「主婦の神」、「主婦の守護神」、「家の守護神」から商人の間では「商業の神様」、そして農民の間では「豊作の神様」というように時代とともに変遷しながら全国に浸透していったのです。
また、大黒天信仰が全国に広まっていった理由の一つに「大黒舞」の存在があります。大黒舞は、大黒天の面をつけて、頭には赤い頭巾を被り、手には打出の小槌を持って大黒天に扮した人たちが「一に俵を踏まえて、二にニッコリ笑って、三に杯を頂いて、四に世の中良いように・・・」というような目出度い数え歌をうたいながら、毎年正月に家々を回って、大黒天の福を分け与えるという門付け芸の一つです。室町時代から江戸時代時代にかけて盛んに行われていましたが、現在では山形県や鳥取県の一部で行われているのみです。
また、大黒天の乗っている2俵の俵は2俵で我慢しなさいという「小欲知足」の教えでもあるといわれています。
大黒天関連の事柄として、「大黒柱」というのがあります。大黒柱は家の中心になる柱を言います。なぜ、中心になる柱を大黒柱と言うようになったかの由来は、かつて家を建てるときにその家の土間と座敷の間にその家を支える最も重要な太い柱を建て、そこにその家の守り神である大黒神を祀ったからです。さらに転じて、その家族を支える中心になる人を「大黒柱」と使うようになりました。さらに転じて組織やグループな中で中心になっている人を「大黒柱」というような使い方もされます。
③毘沙門天
毘沙門天も起源はインドで、後に仏教とともに中央アジア、中国を経由して日本に伝わってきたのですが、その過程で、名前や容姿、福徳などがどんどん変化して、現在の毘沙門天となってきたのですが、経緯が複雑なのでその詳細をみていきます。
毘沙門天の起源は、古代インド神話に出てくる暗黒界の悪霊の主クベーラ神と言われています。このクベーラ神の容姿は8本の歯に3本の足を持った小人という変な姿だったようです。後に、このクベーラ神はヒンズー教で財宝、福徳を司る神となります。さらに、仏教に帰依すると「毘沙門天」または「多聞天」と呼ばれるようになりました。これは、クベーラ神の称号が「神の息子」を意味するインドの古代言語サンスクリット語の「ヴァイシュラヴァナ」によります。これを中国の人は「毘沙門天」と音訳しました。ところが、「ヴァイシュラヴァナ」には「話を良く聞く者」という意味があり、そのため「多聞天」と意訳もされました。ですから「毘沙門天」と「多聞天」は同じ神様ということになります。毘沙門天と多聞天はいづれも仏教を守る御法神ですが、一般的には単独で祀られるときは毘沙門天と呼ばれる場合が多く、四天王の一尊(いっそん)として祀(まつ)られる場合には多聞天と呼ばれることが多いようです。
ここでいう四天王について若干補足しますと、その背景には古代インドの独特の世界観を理解しなければなりません。古代インドでは、無限に広がる宇宙に、風からなる世界の「風輪」という平板が浮かんでおり、その上に水からなる世界の「水輪」が、更にその上に土からなる「金輪」(どこまでもという意味の「金輪際」はここからきている)の世界が乗っています。さながらサンドイッチを水平にしたような形でしょうか。この金輪の上が我々の住む世界になります。さらに、この金輪の中心に須弥山(しゅみせんと読む。サンスクリット語でスメール山という。日本では妙高山または妙光山と訳す)という大きく高い山がそびえています。この頂上が「有頂天」といい神様の住まいがあるところです。この神様を「帝釈天」(「たいしゃくてん」と読みます。古代インドの武神インドラが起源とされます。釈提桓因(しゃくだいかんいん)とも呼ばれます。もともとインドラは、魔神たちと戦った雷神ですが、後に、仏教に帰依した帝釈天には、そうした性格は薄れています。仏教では帝釈天は梵天(古代インドのバラモン教の主たる神の1つであるブラフマーが仏教に取り入れられたもの。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされたブラフマンを神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴイシュヌ(維持神)、シヴァ(破壊神)と共に三大神の1人に数えられた)とならんで仏法の二大守護神とされます。梵天と一対で祀られることも多く、両者をあわせて「梵釈」と呼ぶこともあります。この帝釈天は、須弥山の頂上にあたる利天(とうりてん)の善見城に住んでいると言われています。この帝釈天を守るために須弥山の中腹の東西南北に夫々守護神が配置されています。その一人が多聞天です。多聞天は配下に夜叉(八部衆に属する一尊で、インド神話においては、森に住む精霊とされ、普段は人々に恵みを与えるが、供養しないものには悪疫をもたらす存在だが、毘沙門天の従者となってからは財宝の守護神となった)や、羅刹などを従えて須弥山の北側を守っています。他には、持国天が乾闥婆、毘舎遮などを従えて東側を、増長天が鳩槃茶、薜茘多などを従えて南側を、広目天が龍神、毘舎闍などを従えて西側を守っています。この四人が四天王です。
日本でも四天王は早くから信仰されています。日本書紀には、仏教をめぐって争われた蘇我馬子と物部守屋が戦った時に、仏教擁護の蘇我氏側に立った聖徳太子が、四天王像を造り先勝を祈願し勝利したことに感謝して、摂津国に四天王寺(四天王大護国寺)を建てたと記されています。また、その後の仏像には須弥壇の四隅に邪鬼を踏みしめて立つ四天王像が配置されているものが多く見られます。日本では、ある道、ある部門に秀でた4人をさして四天王とっています。例えば、和歌四天王とは、鎌倉時代から南北朝時代では、噸阿・慶運浄弁・兼好。江戸時代では、澄月・慈延・小沢蘆庵・伴こうけい、源頼光の四天王は渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武、源義経の四天王は鎌田盛政・鎌田光政・佐藤継信・佐藤忠信、織田信長の四天王は柴田勝家・滝川一益・丹羽長秀・明智光秀、德川家康の四天王は井伊直政・本田忠勝・榊原康政・酒井タ忠次、嘉納治五郎の弘道館の四天王は西郷四郎、横山作次郎、山下義昭、富田常次郎などです。
さて、その後毘沙門天はインドからチベットや中国に伝わっていきました。その過程で財宝神に加えて武神の性格を持つようになっていきます。また、容姿もどういうわけかチベットではマングースを持っていたり、中国の民間信仰では顔は緑色で右手に傘、左手に銀のネズミを持った姿で表されるているものもあります。その後、中国から日本に伝わった毘沙門天といえば、その姿は一般には鎧を身に着け、右手に宝塔(釈迦如来の象徴であり、仏教の教えのすべてがつまったものといわれている)、左手に槍りを持ち、邪鬼(じゃき)を踏んでいる様から中国唐代の武将の姿と言われています。容姿からわかるように財宝の神であるとともに、七福神の中では唯一戦いの神様です。このような毘沙門天の性格から、戦国時代には多くの武将に信仰されました。中でも上杉謙信が毘沙門天を深く信仰していたのは特に有名です。謙信は自身を毘沙門天の生まれ変わりと信じており、その軍旗に毘沙門天の「毘」の字を用いる程でした。また毘沙門天は財宝神としての性格や、吉祥天の夫ともいわれ、多くの人に人気があり、七福神の一員に加えられていったのです。
毘沙門天像の安置の形式ですが、これは様々です。例えば、京都の鞍馬寺の場合、毘沙門天像が真ん中で吉祥天(毘沙門天の妃または妹と言われる)と善膩師童子(ぜんにしどうじ。毘沙門天の息子の一人といわれる)を脇侍としていますし、奈良の法隆寺金堂の場合、毘沙門天と吉祥天を一対で安置されています。一方、高野山金剛峯寺の像は毘沙門天と不動明王を一対として安置されていますし、滋賀の明王院場合は、千手観音を中尊として両脇に毘沙門天・不動明王を配置しています。
④弁才天・弁財天
琵琶を弾く妖艷な姿の弁才天は、美、智恵、音楽、財運、弁舌、芸術の神と知られ、七福神の中の紅一点の神様です。起源はインドのヒンドゥー教の神話で蛇を従えた女神「サラスヴァティー神」と言われています。財や富をもたらす神とされています。「サラス」は水を意味し、「バティー」は富むの意味で川、湖、などを神格化したものだといわれます。もともとは西北インドにあった大河の名前を指し、大河の自然としての偉大さ自体を神としたもののようです。さらに河がもたらす恵みから豊穣の女神となり、さらさらと流れる河の音が音楽を奏でるようだとの連想から音楽の女神にもなったと言われています。さらに、言葉の女神ヴァーチュと同一視されるようになり、言葉(弁)の才に優れた神、即ち、弁才天となり、弁舌、学芸、智恵の女神として信仰されるようになりました。弁才天は水に関連するため、その祀られている場所も上野の不忍池、近江の竹生島、安芸の厳島、湘南の江ノ島などすべて「水辺」に関わった場所になっています。 弁才天は日本へは奈良時代に仏教とともに伝わり、室町時代には七福神に加えられました。
それ以前の七福神の唯一の女神は吉祥天だったのですが、心優しい吉祥天がその地位を快活で嫉妬深い弁才天に譲ったとも言われています。このへんの話は日本神話の国譲りの話になんとなく似ているようで素直には信じがたい話です。
江戸時代になり七福神詣でが流行りだすと、弁才天の役割が変化してきます。弁才天の縁日は巳の日ですが、その日に弁才天にお参りし、御礼をもらうと財産を得る事が出来ると宣伝されるようになり、今度は蓄財の神として信仰されるようになってきました。そのため、もともと弁舌の女神ですから「弁才天」としていたのですが、蓄財の女神なのだから「弁財天」と表したほうがいいのではないかということで、この表記をするようになっていきました。代表的な例は、鎌倉市の銭洗宇賀福神社(通称:銭洗弁天)でしょう。銭洗弁財天に参拝して、お金を水洗いするとそのお金が増えるというものです。弁財天の水神としての性格と蓄財の神の性格がうまく結びついたものと思われます。
⑤福禄寿 (中国の道教)
福禄寿の起源はインドではなく中国ですので、今回のテーマからはいささか外れますので説明は簡単にします。福禄寿の姿は背丈が低く、頭が非常に長く、白髪頭で、腰には瓢箪をぶら下げ、その右手には杖を、左手には長命の鳥である鶴を従えている老人です。年齢は数千歳と言われています。
福徳として福(子孫繁栄)、禄(財産)、寿(健康長命)の三つです。
福禄寿の起源についても諸説があり定かではありません。 一説には道教(中国の古くからある宗教)の教えからきているというものです。道教には三徳がそろって人生は幸せであるという教えがあります。三徳とは福徳(単に幸福というだけではなく、子孫が繁栄すること)、封禄(財産)、長寿(健康で長生きすること)の三つを言います。この三徳を具現化したものが福禄寿であるというものです。また、約一千年前の中国の宋時代の道教の道士(道教の教えを信奉し、その教えを伝える人、仏教でいえばお坊さんに近い)であるといわれています。一方、一説には中国の明時代(1368年~1644年)以降民間で信仰されていた三星信仰からきているという説があります。三星信仰では福星は木星のことで立派な官服を着た黒髪の姿で表されています。禄星は緑色の服を着てお金や嬰児を抱えた姿で現されます。寿星は南十字星とされ、一般的には禿げた長大な頭に白髭を蓄えた老人の姿で現されます。日本にはこの寿星が単独で伝わったものであるという説です。
⑥寿老人 (中国の道教)
寿老人(じゅろうじん)の起源も中国です。寿老人は、中国の聖人学者といわれた老子が天に昇って南極老人星になったという道教の思想から発想された神です。寿老人の姿は、身長が三尺(約90センチ)と非常に低く、長い頭に、長い白髭をたくわえています。そして、右手には巻き物をつけた杖を持ち、長寿の象徴とされている鹿(鹿は玄鹿(げんろく)と呼ばれ、ロクは禄に通じることから、延命長寿、福禄の神とされる)をつれている姿で描かれています。 健康、長寿、幸福の神様です。
⑦布袋 (中国の仏教)
布袋の起源も中国で、七福神の中ではただ一人実在の人物です。唐の時代の仏教の僧釈契此(しゃくかいし)と言われています。布袋の姿は大きな袋を背負った、太鼓腹の親しみ易いおじいさんです。開運・良縁・子宝の神様です。
布袋は彼がいつも大きな袋を担いでいるので親しみを込めて呼ばれる俗称です。この大きな袋は托鉢の時に喜捨されたものを入れた袋と言われています。この袋は一説には堪忍袋であるという説もあります。
一方、彼は予知能力があったようで、彼の占いは必ず当たったことから、将来衆生救済の為あらわれるといわれる弥勒菩薩の化身とも言われています。
日本には鎌倉時代ころから普及し始め、室町時代後期に七福神に組み込まれたようです。
吉祥天
以上の7神が現在の7福神ですが、昔、7福神の1神だったのですが、その地位を弁財天に取って代わられたといわれる女神が吉祥天です。では吉祥天とはどういう神様で、どうして7福神の座から外されたのかについてみて行きます。
吉祥天の起源は、古代インドのラクシュミーというヒンドゥー教の女神です。ラクシュミーはサンスクリット語で「シュリーマハーデーヴィー」といい、「大吉祥天女」と訳され、さらに簡略され「吉祥天」と呼ばれるようになりました。また、密教では「功徳天」と訳されています。
吉祥天は幸福・美・富の真美と言われていますが、そのほか五穀豊穣などの福徳があるといわれています。
吉祥天は後に仏教にとりいれられ、仏教の護法神の天部の一つとなりました。また、ヴィシュヌ神(毘沙門天)の妃で、善膩師童子の母とも言われています。そのため日本では善膩師童子と一緒に毘沙門天の脇侍として祀られることが一般的なようです。また、吉祥天の母は鬼子母神であるというのも有名な話です。
吉祥天の容姿は日本においては中国風の貴婦人に描かれ場合が多く、優雅な衣装に冠、左手に宝珠を持っているのが一般的です。しかし、インドでは蓮華の上に立ち、左右二頭の像が注ぐ水を頭に受けているように描かれています。これは「乳海撹拌」という古代インドの神話からきています。それによれば不死の霊液アムリタを手に入れるためヴィシュヌ(毘沙門天)は、マンダラ山を引き抜いて、それを攪拌棒として大海をかきまぜさせました。すると、大海はミルクのようになり、その中からさまざまなものがあらわれてきました。その一つがラクシュミー(吉祥天)です。神々はその美しさに見とれ、ラクシュミー(吉祥天)を自分のものにしようとしましたが、ラクシュミーはヴィシュヌ(毘沙門天)を夫に選んだ、というものです。
吉祥天は7世紀に日本に伝わって貴族など身分の高い人たちから崇拝され人気があった為七福神の一神とされていきました。しかし、のちに同じ女神で金運などの福徳があり庶民に人気のあった「弁財天」に七福神の地位を取って代わられたようです。
また、吉祥天には日本でもさまざまな話が残されています。その一つが「日本霊異記」のこんな話しです。平安時代の信濃の国の山寺の僧が、祀られている吉祥天に一目ぼれし、夢で性交してしまった、というものです。ところが江戸時代になると、吉祥天に代わり七福神入りした弁財天にも同じような話がのこっており、両者はかなり混同されていた様です。
また、日本で吉祥天が祀られているもっとも有名な寺院は、京都の鞍馬寺の木造吉祥天立像です。この像は国宝にもなっています。
また、東京都下に吉祥寺という地名がありますが、この名前の由来は、江戸時代の明暦の大火によって本郷元町(今の水道橋駅付近と言われている)にあった諏訪山吉祥寺の門前町が焼失したため、幕府がその住民たちを今の吉祥寺周辺に移住させたため、この地を「吉祥寺」と呼ぶようになったといわれています。
(4)文化など
以上、特に日本人がインドから影響を与えたと思われる、穢れの思想、因縁生起、七福神の三点について述べてきましたが。そのほかにも我々日本人が生活の上で何気なく使っている言葉などにも、古代インドの言語であるサンスクリット語を起源にする語彙がたくさんあります。特に仏教関係の用語には顕著ですので、そのうちの代表的なものをいくつか挙げてみます。
①声明:
お寺の仏教儀礼で用いられる声楽曲の総称。インドにおける原始仏教教団の成立に伴ってその原型が起こり,中国を経て日本にもたらされたのです。
②僧侶
日本では「お坊さん」のことをさす「僧侶」の語源は、サンスクリット語の「仏教教団」を意味する「サンガ」から来ています。中国に伝わった「サンガ」は「僧か」と音訳されました。しかし、日本では「僧」と訳され、教団ではなく個人の「僧」をさすようになりました。
③旦那:
今はあまり使われませんが時代劇などで、一家の主人や、大店の主人などの意味でつかわれたりする「旦那」は、サンスクリット語の「与える」を意味する「ダーナ」が語源とされています。中国に伝えられたダーナを中国人は「檀那」と音訳し、「施」「布施」と意訳しました。
また、サンスクリット語の「ダーナパテイ」は「慈善家」という意味ですが、中国では「檀越(だんえつ)」と音写され、「施主」と意訳されました。しかし、日本では両者が混同され、「檀那」が「主人」や「保護者的な立場の人」という意味の「旦那」の意味で用いられていますが、「施主」は建設業界では、建物などを発注する建築主という意味で今もつかわれています。
また、日本では、特定のお寺に所属して、その寺を支援する人を「檀家」と言います。
④舎利:
寿司屋さんですし飯を「シャリ」とか「銀シャリ」ということがあります。これもインド起源の言葉ですが、その経緯はいくつかの説があります。「ご飯」を意味するサンスクリット語の「シャリ」からきているという説、「遺骨」、特にブッダの遺骨を意味するサンスクリット語の「シャリーラ」の音訳からきているという説、また中国に伝わった時に「シャリ」と「シャリーラ」を混同したたなどの説があります。
⑤塔
日本では「五重の塔」とか「テレビ塔」などと使われている「塔」の語源は、サンスクリット語でお釈迦様の遺骨を収めた仏塔である「ストゥーバ」から来ています。中国ではこれを「卒塔婆」と音写しました。日本でもお墓に供える死者の供養塔や墓標として作られる頭部に五輪形を刻み,梵字などを記した板木を「卒塔婆」と呼んでいます。
⑥鳥居
鳥居は一般的には神社の入口などにあり、人間の俗界と神様の住む神域を分ける屋根のない門というような意味合いのものですが、語源はサンスクリット語の「門」を意味する「トーラナ」からきているといわれています。
⑦カレー
カレーの語源もインドにあるのですが、経緯はやはり諸説があります。インド南部地域のタミール語で汁を意味する「カリ」に由来するという説、ヒンドゥー語で「香り高いもの」という意味の「ターカリー」など様々な説があります。現代のインドではターメリック,クミン,カルダモンなどのスパイスを調味料として用いた汁のある料理を一般的にカリーと呼びます。
⑧姓名・地名:
○日光:栃木県の代表的な観光地である「日光」の語源は諸説ありますがその一つがインドに由来するものです。インドに補陀洛山(フダラクサン)という山があります。観音菩薩の住まう浄土の山と言われています。このフダラクサンから日光の男体山を二荒山(フタラサン)と呼ぶようになったのですが、820年に空海が820年に弘法大師空海が男体山(二荒山(フタラサン))登った時に?二荒の文字が感心でしないということで、フタラをニコウと音読みし、日光を当てたといわれています。
○柴又帝釈天・帝釈山:帝釈もインドの帝釈天に由来します。帝釈天はインド最古の聖典である『リグ・ヴェーダ』の中で最も多くの賛歌を捧げられている軍神・武勇神のインドラと呼ばれる重要な神さまです。漢字に音写して釈提桓因(シャクダイカンニン)」と呼ばれて梵天と共に護法の善神とされています。帝釈天は須弥山の頂上の喜見城に住んでいて、忉利天に住む神々の統率者です。しかも正法を護持し、仏の教えを聞いて、柔和にして慈悲に富み、真実を語り、正法に従う正しい神さまです。しかし仏陀の教えを聞くまでは、諸天を糾合して阿修羅と戦っていた荒々しい神でもありました。帝釈天は三十三天(忉利天)の主であると同時に四天王を統率し、人間界をも監視します。即ち衆生が殺生、盗み、妄語等を為さないか、父母に孝順であるか、師長を尊敬するか、貧しい人に施しをするかどうか、毎月八日、二三日には人間界に使者を遣わし、一四日、二九日には王子を遣わし、一五日、三〇日には四天王が自ら姿を変えて人間界を巡歴し、衆生の善悪の事を監察するといわれています。従って人々はこれらの日を六斎日といって行いをつつしむのです。
むすび
このように、過去において日本の文化はB.H.チェンバレンの言葉のように大いにインドの影響を受けてきたのですが、その後、日本とインドの交流は遠距離という地政学的な要因もあって、あまり活発ではなかったようです。近年の両国の関係で日本人としてどうしても記憶しておかなければいけないインド人がいます。ラダビノード・パール(1886~1967年)です。彼は東京裁判で日本が国際法に照らして無罪であることを終始主張し続けてくれたインド人判事です。日本人の大恩人です。パール判事についてはWkipediaで詳しく紹介されているので、その一部を抜粋し、紹介します
ラダ・ビノード・パール(英語: Radhabinod Pal, , 1886年1月27日 - 1967年1月10日)は、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。ベンガル人。
ヒンドゥー法を専攻。極東国際軍事裁判(東京裁判)において連合国が派遣した判事の一人で、判事全員一致の有罪判決を目指す動きに反対し、平和に対する罪と人道に対する罪は戦勝国により作られた事後法であり、事後法をもって裁くことは国際法に反するなどの理由で被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」[1])で知られる。東京裁判以降、国際連合国際法委員長や仲裁裁判所裁判官として国際法に関与した[2]。
ベンガル語表記では『ラダビノド・パル』、ヒンディー語表記では『ラーダービノード・パール』となるが、パール家の人間は「パル」と呼んで欲しいと希望している[3]。東京裁判で務めた役職から、日本では「パール判事」と呼ばれることが多い。
パール判決書(反対意見書)
一般に「パール判決書」と呼ばれているが、正確には「判決書」ではない。東京裁判では「judgement」には、裁判所が出す「判決」と、その裁判に関わった判事が、判決について述べる「意見書」の2種類があった。ラダ・ビノード・パール判事が書いたのは、まさに東京裁判所が下した判決に対する「Dissentient Judgement」つまり「反対意見書」である。つまり、これは東京裁判に反対するために書かれた意見書である。
昭和23年(1948)11月12日、東京裁判の判決が下ったわけだが、11人の判事のうち唯一の国際法の専門家、インド代表のラダ・ビノード・パール判事は英文1275ページ(日本語訳文1219ページ)に及ぶ意見書を提出した。
『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 田中正明著
「パール判事に学べ」
産経新聞は平成6年8月18日のオピニオンアップで大きく「パール判事に学べ/見直したい東洋の誇り」と題する主張を尾崎諭説委員の署名入りで発表した。パール判事とはいうまでもなく極東国際軍事裁判(俗称・東京裁判)のインド代表判事ラダビノード・パール博士のことである。この裁判で11人の判事のうちただ一人、被告全員無罪の判決(少数意見)を下した判事で、尾崎氏は次のごとく述べている。パール博士の外貌をわかりやすくデッサンしているので、やや長文であるが引用させていただく。
《ラダビノード・パール(1886~1967年)。現在、どれほど多くの日本人がこの恩人の名をご記憶だろうか。
東京裁判(1946~1948年)で、日本は満州事変(1931年)から盧溝橋事件(1937年)を経て日中戦争に突入し、日米開戦(1941年)、そして終戦に到るまでのプロセスを「侵略戦争」と判定され、この「侵略戦争」を計画し、準備し、開始し、遂行したことは、「平和に対する罪」に当たるとして東條英機ら7人の絞首刑が遂行された。
パール判事は、この東京裁判で日本が国際法に照らして無罪であることを終始主張し続けてくれたインド人判事である。田中正明著『パール博士の日本無罪論』によれば、同判事は日本の教科書が東京裁判史観に立って「日本は侵略の暴挙を犯した」「日本は国際的な犯罪を犯した」などと教えていることを大変に憂えて「日本の子弟が、歪められた罪悪感を背負って卑屈、頽廃に流されて行くのをわたくしは平然と見過ごすわけにはいかない。」とまでいって励ましてくれたのである。
日本が敗戦で呆然自失し、思想的にも文化的にも、日本人のアイデンティティーを失っていた時代に、パール判事の言葉はどれだけ日本人に勇気と希望を与えてくれたことか。わたしたちは決してこの恩義を忘れてはなるまい。
このパール判事の冷静かつ公平な歴史感と人権に感服し、義兄弟の契りまで結んだ平凡社創設者下中弥三郎は、世界連邦アジア会議を開催してそのゲストとしてパール博士を招致した。その没後二人を記念する建設委員会によって創設されたのが、箱根町の丘の上にあるパール記念館である。正式には「パール下中記念館」と呼ばれている。》
以上が産経新聞の要約である。 |
現在は日本とインドの関係は、文化のみならず政治、経済、貿易、戦略など多方面で互恵関係を強化していますし、今後ますます両国の絆は強くなっていくものと思われます。最後にその状況をlivedoornewsを参考までにご紹介します。
日印首脳の「ロマンス」がアジアを動かす・・・海外メディアも注目する両国の急接近 |
安倍首相は11日から13日までインドを公式訪問する。日本とインドの関係は、安倍首相とモディ首相の下で、近年、急速な接近を見せている。両国のそのような関係をエコノミスト誌は「ロマンス」と表現しているほどだ。日印両国がお互いを引き寄せあう理由は何か。海外メディアの分析を通して見てみよう。
◆過去の要因:歴史的不和のない良好な関係
まず、過去に要因を探ってみよう。背景的なことだが、日本とインドの間には領有権問題や歴史問題が存在しない。エコノミスト誌や独国際公共放送ドイチェ・ヴェレ(DW)はこの点を指摘する。
日本は第2次世界大戦でインドに攻め入ることもなく、その一方、日本がインド独立運動の闘士たち、特にスバス・チャンドラ・ボースに保護を与えたことで、多くのインド人は今でも日本を称賛している、とエコノミスト誌は語る。友好的な国民感情の下地があったわけだ。
冷戦時にはインドは非同盟の政治姿勢を貫いたが、ソ連への傾斜があったことを同誌は指摘する。冷戦中、日本とインドはいつの間にか離れていった。またインドが1998年に核実験を行ってからは、日本は援助の大半を中止した。しかし現在、このことはほとんど忘れられた、と同誌は語る。
2005年にアメリカはインドと原子力協定を結ぶことを決めたが、同誌によると、これは実質上、核兵器不拡散条約(NPT)を締約していないインドに核保有を認めるものだった。その後、日本とインドの関係も改善した。インドとアメリカの関係はこれまでになく強固になっており、インドは「全方位同盟」の姿勢を取るようになっている、との旨を同誌は語っている。このことも、日本とインドが接近しやすくなる下地となった可能性がある。
◆現在の要因:中国の懸念
次に、現在の要因を考えてみよう。日本とインドが共有しているもの、それは台頭する中国が、南シナ海で人工島を建設するなど独断的な振る舞いを行っていることへの懸念である。
フィナンシャル・タイムズ紙(FT)は、日本とインドはともに、中国の台頭と、南シナ海、ヒマラヤ山脈、そして現在はインド洋での中国の主張の強さに不安を感じている民主主義国である、と語っている。エコノミスト誌は、中国は両国にとって最大の貿易相手国ではあるけれども、安倍首相、モディ首相とも、中国の軍事的台頭を相殺したいと思っている、としている。
そこで、このたびの首脳会談でも、両国の防衛協力が重要な議題となる見通しだ。具体的には、日本の飛行艇US-2のインドへの移転と、技術移転によるインド国内での製造について合意がありそうだと考えられている(「装備品移転協定」と「情報保護協定」)。DWは、この訪問でまとまりそうな最初の大きな防衛協定だとしている。この飛行艇は、海上の偵察と捜索救助活動に使用されるものだという。
DWでテンプル大学ジャパンキャンパスのジェームズ・ブラウン准教授が語っているところでは、武器輸出に関する制限を緩和した日本政府は、海外への軍事技術の販売を増やすことを熱望している。しかし日本政府の関心は経済面だけではない。「安倍政権は中国の台頭を相殺する助けとなるかもしれない、地域の全ての国との安全保障関係の強化に努めている」として、中国を包囲する防衛協力の狙いがあることを強調した。
◆現在の要因:首相同士の個人的相性
だが、現在、これほど日印を接近させている要因は、中国への懸念だけではなさそうだ。最近の日印関係の進展は中国がアジアで主張を強めていることへの反応とみなしうるが、専門家らはモディ首相と安倍首相が共有する「個人的共通点」も関係の発展に寄与しているかもしれないと主張している、とDWは伝えた。2人の相性の良さが国同士の関係の発展に役立っている、との見方だ。
エコノミスト誌も同様の見方をし、彼らの友情はアジアに影響を及ぼす、と語っている。さらに、2人の関係を恋愛関係になぞらえて伝えている。
安倍首相が遅ればせながらTwitterを始めたとき、彼が最初にフォローした世界の指導者はインドのモディ首相だった。ときどき、この2人の男性はTwitter上で熱烈な求愛に従事する、と同誌は語る。
そして、多くのことが2人を引き寄せる、として、2人の共通点を列挙している。2人はともにアジアの民主主義大国のナショナリストの指導者である。2人とも、成長を活性化する改革と、欧米とのより緊密な軍事的関係を促進することによって、自国の重要性を明示することを求めている。2人とも国連安保理の常任理事国入りを熱望している、などなどである。今度の安倍首相のインド訪問では、両首相の関係が、一時的なものから、真剣なものに進展できるか、という点が問題になるだろう、と同誌は語っている(戯れの恋から婚約へ、とも読める語で)。
「両首相がカメラの前で普段以上に努力していることは間違いないが、両首相は本当に気が合うように見える。おそらく、2人とも論争を恐れないナショナリストだという事実がこれを助けている」と、ブラウン准教授はDWに語っている。
また、米ジャーマン・マーシャル・ファンドの南アジア専門家Dhruva Jaishankar氏は、DWに「モディ首相は『日本びいき』で、安倍首相は個人的にインドに強い関心がある。2人とも似たような世界観と大望をもっている。日本とインドは同じ戦略上の優先順位をもっている。また相手の力を借りて国内経済の変革を達成したがっている。それで、自然な接近があるのだ」と語っている。
◆未来の要因:貿易と投資の拡大への期待
最後に、未来への期待という面から、日印両国が接近する理由を見てみよう。それは何といっても、貿易と投資の拡大への期待である。昨年、モディ首相が訪日し、首脳会談を行った際にも、このことが重要議題となった。そのときの共同声明では、5年以内に日本からインドへの直接投資額、進出企業数を倍増させる目標が掲げられたほか、日本がインドに5年間で約3.5兆円の官民投融資をするとされた。
エコノミスト誌は、日印の経済的つながりはまだ著しく弱い、と語っている。インドは世界7位の経済国であるものの、日本の輸出入、および対外直接投資のせいぜい1%程度しか占めていない、としている。
インド防衛研究所のSmruti PattanaikリサーチフェローはDWに、「日本が経済面でインドとますますかかわりあうようになるにつれて、両国は世界的問題で戦略的にも接近するだろう」と語り、それによって日印関係はさらに強固になっていくと見立てている。中長期的に、日印は緊密な関係になりそうだ、というのが氏の見方だ。
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