日台友好の礎を築き、台湾の教科書にも載っている八田與一

 


前回は、エトトールル号事件がきっかけで親日国となったトルコを紹介しましたが、次に紹介したい親日国は台湾です。そこで、まず台湾の概要を押さえておきましょう。正式な名称は中華民国。面積3万6千平方キロメートル、ほぼ九州と同じくらい。人口は約2800万人。民族構成は98%が漢民族で、その85%が1945年以前から住んでいる人々で、この人たちを本省人といい、その後台湾に来た人たちを外省人と言います。それ以外では16万人と最多の人口のアミ族など多数の少数民族がいます。気候は北部は亜熱帯、南部は熱帯に属します。公用語は中国語、首都は台北市です。
 日本の対台湾の窓口である交流協会は、毎年台湾で「あなたの好きな国は?」というアンケート調査を行ってます。この調査で日本は、2008年の調査開始以来第1位を守っています。昨年も65%で第1位でした。ではなぜ台湾の人々は日本が好きなのか。その理由を知るためには台湾の歴史を知らなければ理解できません。その理由の一つに八田與一の存在があります。八田與一は日本ではあまり知られていませんが、台湾では殆どの人が知っています。なぜなら台湾の教科書に載っているからです。一方、日本でも司馬遼太郎の「街道を行くシリーズ」の「台湾紀行」のなかで紹介されてから一部の人には知られるようになりました。最近では、テレビや書籍などたくさん取り上げられるようになりました。その中から、ここではコンパクトに八田興一を紹介している竹田恒泰著「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」から八田興一に関する部分を抜粋しましたのでご覧ください。

(1)台湾に造られた東洋一のダム

 このように、日本人が異国でなした仕事は山ほどあるが、戦後ばかりではなく、戦前の仕事にも注目したい。それには、台湾中部の嘉南平野にある鳥山頭ダムを外して語ることはできまい。

今の日本には知る人も少ないが、現在でも台湾の歴史の教科書に登場し、台湾人であれば誰でも知っている日本人がいる。日本投統治時代の台湾で、大正期から昭和期にかけて農業水利事業に大きな貢献をした技術者、八田與一である。八田は広大な嘉南平野が常に旱魃(かんばつ)の危機にさらされていることを改善するために、巨大ダムの建設を計画し、予算を取り付けることに成功した。大正9年(1920)に着工し、昭和5年(1930)に竣工した鳥山頭ダムは、当時世界最大のダムで、有効貯水量が1億5000万立方メートル(黒四ダムは2億立方メートル)、嘉南平野一帯に張り巡らされた水路は1万6000キロメートルに及び、それらの水利施設は今でも稼働している。

嘉南平野は北回帰線上に位置するが、世界における北回帰線上の地域はほとんどが砂漠になっている。ところが、八田が鳥山頭ダムと灌漑用水を完成させてから、嘉南平野の米の収穫高は短期間で30万トンから180万トン(日本で一番の県別米収穫量は新潟県の66万トン)に急増し、現在では一大穀倉地帯となっていて、見渡す限りの農地が続いている。

これほどの事業を達成した八田の墓は、八田が手がけた鳥山頭ダムを見渡せる高台にあり、毎年5月8日の命日には、日本と台湾各地から数百もの人が訪れ、夥(おびただ)しい数の花が捧げられる。平成20年(2008)と同21年(2009)の命日には台湾総統も献花に訪れ、八田を称える演説をしている。また平成22年(2010)に行われた六八回の命日には総統の姿はなかったものの、閣僚の姿があった。台湾において毎年命日に総統や閣僚が欠かさず参列するのは日本人では八田以外にはないだろう。

八田與一の墓の近くには、生前に地元の農民の提案によって作られた八田の銅像がある。権威主義を嫌った八田は当初、銅像の制作には反対だった。だが、足を崩して座り、八田が何か考え事をするときの癖だった髪の毛を指で回す仕草の銅像の計画を立てたところ八田の了解を得ることができ、生前に銅像が作られた。

その後、大戦中に金属の供出を求められた時期と、大戦終結時の日台関係が冷え切った時期に銅像が取り壊される危機を迎えたが、いずれも銅像は農民の手によって隠し通され、終戦から三十六年が経過した昭和五十六年(1981)になってようやく元の場所に戻された。これほど八田が地元の農民に愛されたのは、八田が卓越した能力を発揮して、歴史に残る水利計画を完成させたのみならず、八田の人柄によるところがおおきいのではなかろうか。鳥山頭ダムの工事期間中、八田は総督府を退職し、現場監督となり、地元の人と寝起きを共にして働き、労働環境の改善に尽力したことが知られている。日本人と台湾人に平等に接した八田は地元の人々に慕われ、やがては「神を崇める」と表現しても良いほど、地元の人々に大切にされる存在になったのである。

鳥山頭ダムのすぐ近くには、建設工事で命を落とした作業員たちの慰霊碑があり、全員の名前が刻まれている。私はその慰霊碑を見て日本人と台湾人の名前が交互に分け隔てなく表示されていることに気づいて驚いた。日本総督府時代の台湾において、日本人の心にはどうしても台湾人を差別的に見る意識があったに違いない。それにも拘わらず、日本人と台湾人を区別せずに慰霊したのは、最大限に台湾人を尊重した八田の考え方によるものだったという。

しかし、多くの日本人が殉職していることも。衝撃的だった。八田は台湾人のみならず、日本人をも危険な作業に従事させ、自らも率先してそれを行ったと伝えられる。地元の人々に愛された八田技師の人柄は、心の荒んだ今の時代にこそ、学ぶことが多いのではなかろうか。八田はダムを完成させると再び台湾総督府に復帰するが、大東亜戦争中の昭和十七年(1742)五月八日、調査の為長崎からフィリピンに向かう途中、乗っていた輸送船が五島列島付近で米国潜水艦の攻撃を受けて沈没し、五十六歳の生涯を閉じた。遺された妻の外代樹(とよき)は、昭和二十年(一九四五)九月一日、八田の後を追って鳥山頭ダムの放水口に身を投げて命を絶った。地元の人々は、今も外代樹が人柱となってダムを守っていると信じている。

現在でも台湾で八田夫妻が慕われていることは、日本と台湾の友好の歴史を象徴するものではないだろうか。それにしても日本で八田のことがあまり知られていないのは残念でならない。本来ならばこのようなことこそ、教科書で教えるべきである。総統率いる台湾政府は鳥山頭ダム周辺の文化事業など、八田技師を通じた対日友好政策を積極的に進めている。台湾政府だけでなく、日本政府も八田技師の歴史的意義を再認識し、日台友好のために最大限の努力をすべきであろう。また、私は、鳥山頭ダムが台湾で最初のユネスコの世界遺産に登録されることを願っている。もし、日本政府がそのために協力ができたなら、日台の友好はますます強靭なものとなるに違いない。日台友好は東アジア平和の基礎である。日台友好の柱を現在に遺してくれた八田技師に感謝申し上げたい。


2.台湾の歴史と日本のかかわりについて

前述のように八田與一が日台友好に.果たした役割はたいへん大きなものでした。しかし、台湾の親日はそれだけが理由ではありません。そのカギを解くためには台湾の長く複雑な歴史を知らなくては理解できません。そこで、台湾の歴史を見ていきましよう。

台湾には古来より先住民が住んでいました。しかし台湾が歴史的に登場するのは17世紀に、スペインが台湾の北部に乗り込んできてからです。次いでオランダが台湾南部に乗り込んで来ます。そして、1642年にオランダの東インド会社がスペイン勢力を台湾から追放し、以来38年間オランダの台湾支配が続くことになります。オランダの占領に対し原住民たちは反発しました。これに対しオランダは武力で鎮圧しました。しかし、1662年、台湾の英雄鄭成功(1624―1662、父は中国人海商で後の明の総戎大将軍となった鄭芝竜、母は平戸の田川七左衛門の娘マツ。日本名和唐内(または国姓爺)7歳で中国へ渡り明王朝で活躍するも、清王朝の台頭により劣勢となり台湾へ本拠地を移し、1661年にオランダ勢力を台湾から追放し、解放した。しかし、翌年台湾で死去。日本では近松門左衛門の人形浄瑠璃「国姓爺合戦」で知られる。中国、台湾での民族的英雄である)がオランダ勢力を台湾から追い出し、鄭氏の支配が確立し、以後21年間継続します。しかし、1683年、中国(当時は清王朝)が鄭氏を滅ぼし、台湾を福建省に編入しました。そして、1895年、中国(清王朝)は日清戦争で日本(当時は大日本帝国)に敗北し、講和条約である下関条約に基づき台湾を日本に割譲しました。以後日本の台湾支配が50年間続きます。最初のころは先住民の強力な抵抗にあった日本は徹底的な武力鎮圧をしました。しかし、その後日本は欧米の「搾取型植民地政策」をとらず、「内地延長主義」という政策をとりました。これは台湾を日本国内と同じように扱うという統治方法です。また、日本は統治時代有能な人材を台湾に送り出しました。例えば、総督は陸・海軍大将または中将に限られていたのですが、初代の樺山資紀(海軍大将。後に内務大臣、海軍大臣。在任期間は1年1か月)、2代目は桂太郎(陸軍大将で後に内閣総理大臣。在任期間は1年4か月)、3代目は乃木希典(陸軍大将。在任期間は1年4か月)などです。そして、第4代目は児玉源太郎(陸軍大将。日露戦争のとき満州軍総参謀長として勝利に貢献した名将。在任期間は8年)である。児玉は内政に忙殺されていたため、現地の行政は、後藤新平台湾総督府の民政長官として、8年8か月勤め、その間に台湾の社会制度やインフラの整備に功績をあげた。後に満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長などを歴任が取り仕切りました。彼の台湾での業績は、土地や人口調査を実施したり、鉄道、道路などのインフラを整備したりして、台湾の産業発展の礎を築いたのです。また、経済面では発券銀行である台湾銀行を設立し貨幣を統一しました。一方、台湾の主産業である製糖業を発展させるため、農学者の新渡戸稲造(台湾総督府殖産局長として活躍。後に、国際連盟事務次長を務める。武士道の著者としても知られる)を内地から呼び、台湾製陶業の礎を築いたのでした。西郷菊次郎(台北庁長・宜蘭庁長後に京都市長を務める)は宜蘭河の治水工事に携わり、これが西郷堤として今でも残っています。そして、今回、取り上げた八田与一です。彼らは誠心誠意台湾発展のために全力を尽くし、産業インフラの整備、日本式の教育方式の導入、産業の工業化など台湾の発展に貢献しました。例えば教育を見てみますと、日本から優秀な教育者を派遣し、台湾全土に学校を建て1904年には3.8%だった進学率を1944年には71.3%に向上させました。また、衛生面では各地に病院を建設し衛生状況を改善したり、アヘン吸引の習慣を根絶しました。一方、インフラの整備面では日月潭にアジア最大の水力発電所を建設し台湾中に電気が通うようにしました。この発電所はいまだに台湾の水力発電量の半分を生み出しているのです。
 しかし、1945年、日本(大日本帝国)は、第2次世界大戦で連合国(米、英、仏などに中国(この時、中国は清王朝が1991年の辛亥革命で滅び、蒋介石率いる国民党の中華民国が成立していて、南京を首都としていた)に降伏したため、台湾を放棄しました。無政府状態の台湾を、蒋介石率いる中国(中華民国) が自国に編入し支配することになりました。そのため、中華民国関係の軍人や官吏が大陸から台湾に大勢やってきました。もともと台湾にいた人を本省人(台湾人)と言いますが、これに対してこの時に中国から来た人々を外省人と言います。彼らは行政の要職を独占し、しかも腐敗していました。そのため本省人の反発を招きました。1947年2月28日、本省人の民衆が蜂起する二・二八事件が起きました。これに対して蒋介石は徹底的な弾圧をもって臨み、事件後も台湾人の抵抗意識を奪う為に知識階層・親日派・共産主義者者を中心に十万人以上と言われる人々を処刑したと言われています。今でも台湾の人々は「犬が去って豚が来た」と言います。犬’(日本人)はうるさいが番犬になるが、豚(中国人)はただ貪り食って寝るだけという意味で、まだ日本時代の方がましだというのが一般的な台湾に人々の実感でした。
1949年、中国国内では、国共内戦と呼ばれる国民党と共産党の内戦が生じました。結果はソ連から武器などの援助を受けた毛沢東率いる共産党軍が、腐敗しきっていた国民党に勝利しました。その後、共産党は中華人民共和国を樹立し中国を支配し、敗れた中華民国は台湾(台北)に亡命政府を建て、台湾の統治を行っていきました。1950年に蒋介石が総統に就任し、中華民国(台湾国民政府)が動き出します(中国はこの時代は北京の中華人民共和国と台湾の中華民国という二つの政府が存在し対立していたことになります)。しかし、戦闘は中華人民共和国の優位が続き、中華民国の滅亡は時間の問題と思われていました。そんな状況下で、旧日本陸軍の中将だった根本博はヒヨンなことから中華民国に力を貸すことになりました。そして、連戦連敗が続くなか、金門島に迫った3万2千の中華人民共和国軍に壊滅的打撃を与え戦況を変えたのでした。この知らせを聞いた総統の蒋介石は涙を流して喜び、根本が帰国するときに一対の花瓶の一つを兄弟の証として根元に贈ったのでした。しかし、1971年、国連総会で「追放国府、招請北京」の議案が承認されると中国を代表する政府は中華人民共和国となり、台湾国民政府は中国の代表権を喪失、と同時に国連から脱退。その後、米国や日本も中華人民共和国と国交を結んだため、中華民国と正式な国交を断絶せざるを得なくなりました。これに対して、台湾の中国国民党政権は戒厳令をしき政党の設立を認めませんでしたので、中国国民党の一党独裁が続くことになります。しかし、 1988年、蒋介石の後継者だった将経国総統の死去したことにより、副総統だった李登輝が後任に就任しました。李登輝は本省人ですので、初めて台湾出身者が国民党政権のトップになったのです。彼は台湾の民主化を進め国民の広い支持を獲得、1996年には初の総統直接選挙を実施して勝利しました。その後、2000年の総統選挙では野党であった民主進歩党の陳水扁が選出され、国民党は野党となりました。しかし、2008年の総選挙では再び国民党の馬英九が選出されて現在に至っています。大雑把な台湾の歴史ですが、これだけを見ても台湾が世界や近隣諸国の政治に翻弄されたことや、日本とのかかわりがいかに深いか分かろうかというものですし、親日の理由も理解できたかと思います。しかし、前述したようにかって中国軍として日本軍と戦った人々もいるわけですから、台湾人=全員親日というわけではないことも記憶しておかなくてはいけません。    

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3.その後の日台関係

1)感謝される日本隊

   1999年9月21日、台湾を20世紀最大と呼ばれるマグニチュード7.6の台湾中部大地震が襲い多数の犠牲者が出ました。この時日本の救助隊が活躍したのですがこの時の記事を二つ紹介します。

 今回の台湾大地震では、日本がかなり目立った働きをした。地震発生当日の夜には、日本からの緊急援助隊が一番乗りし、「空港で一秒間も休まずに災害現場に駆けつけた」(地元マスコミ)。
  規模も合計百二十五人と最大、機材も最新鋭、訓練、規律も最高とあって、地元マスコミに高く評価された。ファイバースコープや生存者の呼吸を電磁波で探知する「シリウス」と呼ばれるハイテク機器、赤外線探知機、さらに大型の切断器具などの最新鋭装備だけでなく、発見された遺体に敬礼を捧げたり、「(救助できずに)申し訳ありませんでした」と遺族に  語る救助隊員の姿勢が、好感を持って報道されている。
日本時代に育った高齢者「多桑(とうさん)」世代を中心に、「よくやってくださいました。ありがとう。」と涙を浮かべながら、丁寧な日本語でねぎらいの言葉を寄せたり、食事を提供してくれる人も多い。被災地の、それも最も被害の甚大な場所にいながら、食事や水に困ったことがないという。[2] http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_2/jog108.html


 この台湾大地震については作家曽野綾子氏が1999年11月2日付の大阪新聞に掲載された台湾大地震?「日本人が一番先に・・・感謝」に次のように記述している。

 
台湾の中部大地震の後、一番早く現場に乗り込んだのは、日本だった。地震発生は九月二十一日午前一時四十七分頃、マグニチュード七・七であった。
 台北におられた李登輝総統はまだ就寝されていなかった、とご自分で語られた。まず電気がすうっと暗くなって、それから停電した。その後で地震が来た。電気の方が先に異変を告げたのである。
 日本へは国際連合人道問題調整事務所からの緊急援助の要請があり、外務省から消防庁長官に国際消防救助隊員の派遣要請が伝えられた。
 国際消防救助隊員がまず一名先乗りとして入ることが決ったのが十一時二十分。十四時○○分羽田発の中華航空で現地時間十六時二十分には台北に着いている。
 第一次派遣隊十五名は、同日の二十時五十分には台北に入った。さらに第二次派遣隊十五名は、それから一時間二十分遅れの二十二時〇九分には台北に着いており、最後の第三次十五名も翌二十二日十一時二十分に到着した。隊員の名簿から見ると鹿児島や佐世保の消防局からも加わっているからいかに素早く行動編成がなされたかがわかる。国際消防救助隊が四十六名、警察が四十五名、海上保安庁十三名、JICA調整員五名、というのがその総数である。
 「日本人が一番先に駆けつけて来てくれたことを感謝します」と今度、台湾に日本財団からのお見舞金を届けに行った時、あちこちで言われた言葉がそれである。災害の時は、何はともあれ、何ができますか、と駆けつけることなのだ。李登輝総統を初めとして、政府要人がこの一カ月、救援のために疲れ果てておられることは知っているが、お金だけ振り込めばいいというものではない。ほんの五分間、お見舞の心を述べるために行ったのだが、いい話を総統からもたくさん聞かせて頂いた。
 日本から送ったプレハブの第一陣は八坪のもので十月九日には建て終り、大変役に立ったが、日本からの贈りものに台湾政府はテレビ、冷蔵庫、冷房をつけ足した。それで入居した人はほんとうに満足した、という。誰がどこまで心遣いしようと、住むことになった人がささやかな幸福を得れば、それでいいのだ。李総統は財団がお贈りした三億円の使い道についてもはっきり目的を示され、今まで不備だったこうした近代的な救援隊の装備と訓練にあてたいと、言って下さった。
 日本からの国際救援隊が帰国する日、台北の飛行場の出国手続きをしている時だった。空港勤務の出入国管理宮や税関職員の間から全く期せずして、拍手が起きたという。誰が指令したのでもない。自然に人間の心の感動の波が伝わった瞬間であった。
 地震は全く災害である。しかしその不幸の中でさえ、人間は明るさと希望、励ましと勇気を与えられる。人生は捨てたものではない、のである。

(2)東日本大震災時の台湾の見舞金は世界最大の200億円

 台湾の馬英九総統は「日本側の要請を受けたら、すぐに救援隊を出動したい」と語り、要請があればいつでも援助隊を出動可能な状態に待機させた。中華民国外交部は11日、大地震に遭った日本政府に30万台湾ドルの義援金を送ることを表明。翌12日には、1億台湾ドル(約2億8000万円)に増額した。13日には被害の拡大により、被災地に援助隊を派遣することを表明。同総統は演説で、日本が1999年9月の台湾中部大地震や2009年8月の南部台風災害で台湾を支援したことに触れ、「我々も同様に積極支援する」と語った。台湾の救助隊28人は3月14日午前に台北市内の松山空港のを出発。同救助隊は日本に到着の後、自力で被災地に入り、救助活動に当たる計画を立てた。台湾は11日に派遣の用意を表明していたが、日本側の待機要請により、各国の救助隊が日本入りする中、丸2日間の待機を余儀なくされた。台湾側外交関係者は日本政府の中国の立場への配慮を示唆している。また、親日家として知られる李登輝元総統は3月12日に、日本語で「日本の皆様の不安や焦り、悲しみなどを思い、私は刃物で切り裂かれるような心の痛みを感じている」、「自然の猛威を前に決して運命だとあきらめず、元気と自信、勇気を奮い起こしてほしい」と励ましのメッセージを寄せている。物資支援として、発電機688台,毛布1,599箱,寝袋2,587箱,スリーピングマット236箱,衣類(防寒着等を含む),4,488箱,食品16.5トン及び9,444箱,ストーブ900台,マスク404箱,カイロ150箱,飲料870箱,手袋42箱,暖房器具53台,マットレス33箱,粉ミルク895箱,マフラー21箱,ナプキン10箱,枕16箱,キルト408箱,ティッシュ20箱,トイレットペーパー30箱,懐中電灯3箱,タオル48箱,納体袋24箱を宮城県、福島県、岩手県、新潟県、山梨県に提供。3月17日・18日には、チャリティー番組「相信希望 fight&smile」と「送愛到日本311震災募款晩會」(日本の311震災に愛を送る夕べ)が放送され、8億9000万台湾ドル(約24億3000万円)が集まった。3月21日時点の義捐金の合計は15億台湾ドル(約41億円)以上に達し、4月1日には100億円を突破した。これは同時期に米赤十字が発表した同国の金額を上回る。4月15日には140億円を超え、世界各国中、最多となった。その後、200億円以上となった。4月11日、日本政府は台湾への特別メッセージを込めた菅直人首相名義の感謝状を、実質的な在台湾の日本大使館として機能している財団法人交流協会を通じて馬英九総統、呉敦義行政院長、楊進添・外交部長に送った。4月29日、日本政府は東日本大震災の義捐金活動などで貢献した台湾人4名(エバーグリーン・グループ)総裁・張栄発氏ら)に対して叙勲を行った。また政府が米国や中国などのメディアに感謝広告を寄稿した一方で台湾の新聞には実施しなかったことについて日本人デザイナーが広告掲載を呼びかけ、5月3日に台湾主要新聞2紙に掲載された。 「謝謝台湾計画」および「:zh:中華民國政府與臺灣人民對2011年東日本大震災之援助及各界反應與檢討


(3)「元気です。ありがとう台湾」 日本の「感謝広告」が台湾の教科書に

 大震災から1カ月後、日本政府(民主党菅首相)は各国からの震災支援に対するお礼の広告を出しました。しかし、その中に最大200億円の義捐金を出した台湾は含まれていませんでした。理由は中国の反発を恐れたために過剰配慮したためです。この日本政府の対応に「親切にされたら御礼をするのは常識なのでは?」と思った日本人女性デザイナー・木坂麻衣子さんが「1000円の使い道はいろいろ。台湾の皆さんにお礼を言いたい人は謝謝台湾計画にぜひご参加を。被災地への義援金にしたい人は募金へ。お子さんに何か買ってあげるもよし。選択肢はたくさんあります。何度でもなんでも選べますと」と『謝謝台湾計画』を策定し、台湾の新聞にお礼広告を掲載するため、Twitterやブログで広く支援を求めると、たった数日で19,245,494円(約2000万円が)集ました感謝広告は2011年5月3日、台湾主要2紙の朝刊に掲載されました。
  
さらに、震災から1年後、東日本大震災発生から1年を迎えた3月11日、日本の台湾との窓口機関、交流協会は、台湾大手各紙の一面に感謝広告を掲載しました。。今度は日本政府として台湾に感謝広告を出しました。台湾からの多額の義援金などの支援に感謝を示すCMが、台湾の主要テレビ局で放送されました。政府機関によって感謝CMが作られたのは世界でも台湾のみ台湾で放送されたテレビCMは大きな反響を呼美ました 採用された広告は、宮城県石巻市の中学生らが、古タイヤを利用した手製の太鼓 を打っている場面に、「元気です。ありがとう台湾」と書かれている。台湾の教科書出 版大手の中学3年生用「公民」の「世界公民の基本素養」の項で、国際社会への 関心の重要性を紹介する部分に資料として掲載される事になりました。 


李登輝からのメッセージ

  前述のように先人たちの築いた日本と台湾の絆にはトルコのときと同じように善意のストロークが行われています。最後に、2014年11月25日洋泉社発行の「台湾と日本人」に寄せられた、元台湾総統李登輝1923年に、日本統治下の台湾に生まれ、京都帝国大学農学部で学ぶ。第二次大戦後は中国国民党に反発していたが、農業の専門家として蒋経国に抜擢され、1971年に入党。以降、累進し、1984年に蒋の副総統となる。1988年、蒋の死去により総統に。1996年、初の直接選挙にも勝利し2000年まで総統を務める。退任後は台湾独立の主張を強め、2001年に国民党を除籍された。からの日本人へあてた日本愛に溢れたメッセージを紹介します。

台湾と日本の間には深い「絆」が存在します。
歴史を振り返れば1895年からの50年間、
台湾人と日本人がともに歩んだ時代がありました。

日本人が台湾にのこしていった歴史遺産、
それらは今でも台湾で守られ、親しまれています。
そして、2013年の東日本大震災
台湾から多大な支援とメッセージが日本に送られたことは
記憶に新しいことでしょう。
我々の試練と苦難を乗り越え、
日本と台湾の間には
新しい絆が生まれ、
それが確実に育まれていることを実感しています。

2014年9月、
私は5年ぶりに日本を訪れました。
そこには、私が常々評価してきた「日本精神」が
変わることなく、息づいていました。

日本精神や武士道といった言葉は、
封建的な時代の名残りのように聞こえるかもしれません。
しかし、日本の人々や街並みには
そういった誇るべき素晴らしい財産が残っていました。
私はそれをはっきりと感じ、
改めて「日本はいい国だ」と思いました。

 これからも日台両国が永遠の絆を培っていくことを願っています。

           李登輝