社会人基礎コース第3回

知っておきたい話
 
エルトゥールル号遭難事件の教訓



まえがき

 今から20年程前。イランとイラクが戦争をしていました。このとき、300人の日本人が戦禍のイランの首都テヘランに取り残されてしまいました。他の国は緊急に救援機を飛ばして自国民を救出したのですが、日本政府はどうすることも出来ませんでした。ところが日本から依頼を受けたトルコ航空が危険を冒して救援機を飛ばし日本人全員を救出したのです。このとき、イランにはトルコ国民も6000人取り残されていたのですが、この人達は危険な陸路を何日もかけてトルコへ脱出したそうですが、このトルコ政府の処置に対して何の非難も出なかったそうです。
 
日本国内では、何故トルコが自国民に優先し、危険を冒してまで日本人を救出したのかわからなかったのですが、後に元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏が産経新聞に寄稿した次の記事を読んでやっと理解できたのです。

『エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです』 

  物事には必ず原因がありますが、このトルコ航空機の日本人救出の原因が同氏の記事にもあったように「エルトゥールル号遭難事件」だったのです。しかし、日本人は同氏が言われるように、すっかりこの事件を忘却の彼方へと忘れ去ってしまっていたのです。この「エルトゥールル号遭難事件」とは、今から約120年前トルコ(当時は、オスマン帝国といった)の軍艦エルトゥールル号が紀伊半島沖で遭難し219人が死亡、362人が行方不明になった事件です。この大惨事のとき奇跡的に69人が救助されたのですが、その陰には大島島民(現在の串本町)の必死の救助・介護活動があったのでした。この大島島民の救助活動とその後の日本政府や日本人の取った行為にトルコ国民は大いに感動し、そして世界中で数少ない親日国の一つとなったのです。トルコ人に言わせれば殆どの人が「世界中で一番好きな国は日本」と答えるそうです。
 今回は、「エルトゥールル号遭難事件」に始まる日本とトルコの友好の歴史の経緯を検証し、国家としての外交とはいかにあるべきなのか、人間として何が大切なのかなどを考えていきたいと思います。


1.きっかけは、エルトゥール号遭難事件


(1)エルトゥール号来日の理由

 明治維新から20年、日本は北の強国、帝政ロシアの南下政策に脅かされていました。一方、トルコ(当時は、かつての超大国だがすっかり衰退したオスマン帝国が支配していた.以下トルコと表記)は西洋列強に領土を侵される危険を感じていました。この様に当時の日本とトルコは同じような悩みを抱えていました。そこで日本は1887年、皇族小松宮彰仁親王(のち陸軍元帥)をトルコに派遣し、国王アブドゥル・ハミト二世に拝謁しました。この返礼のため、2年後の1889年、トルコ国王はオスマン・パシャ海軍少将を全権特使とする609人の使節団を日本に送ることにしました。しかし、当時のトルコには財政的余力は無かったため、建造後20年以上経過した木造の老朽フリゲート艦エルトゥールル号(2,344トン・全長76m)を使用することになりました。しかも、乗組員はほとんど技術の未熟な海軍の兵士たちでした。エルトゥールル号は、1年近くかかりやっと日本に到着し、翌年の1890年(明治23年)6月13日に、皇帝の親書を明治天皇に奉呈し、トルコ最初の親善訪日使節団として大歓迎を受けました。しかし、エルトゥールル号の老朽化はひどく、しかも、物資や資金の不足に加えて、コレラが発生したため、同年の9月14日になってやっと横浜港を出航し、帰路に付くことになりました。遭難事件はその帰途に起こったのです。


(2)エルトゥール号遭難事件

  エルトゥールル号が横浜港を出港して2日目の1890年(明治23年)9月16日夜半、昔から海の難所といわれる熊野灘にかかったとき、折からの暴風雨により、船は紀伊半島南端にある大島の樫野崎に連なる岩礁に激突し、沈没してしまいました。司令官オスマン・パシャをはじめとする大多数が死亡または行方不明になる大惨事となってしまったのです。
  このとき、陸地に流れ着いた遭難者は、数十メートルの断崖を這い登って樫野埼灯台に遭難を知らせたのでした。灯台守の通報を受けた地元の大島村樫野地区(現在の串本町)の住民たちは、総出で遭難者の救助と生存者の介抱にあたりました。この時、樫野地区の戸数は
60戸程の貧しい魚村でした。折り悪くこのときは暴風雨により出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は、ありったけの卵やサツマイモなどの食料品を遭難者のために差し出し、最後には非常用の鶏すら提供するなど、まさに献身的に生存者たちの回復に努めたのでした。その結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された遭難者69名全員が一命を取り留めたのです。数日後、遭難者たちは全員が救援に駆けつけたドイツの軍艦で神戸の病院へ移送されたのでした。
  現場では、その後一週間にわたり住民百数十名で出て、他の遭難者の捜索につとめました。その結果
219名の遺体を収容しました。発見された遺体は、ハイダール士官立ち会いのもとに、樫野崎の丘に埋葬されました。しかし、オスマン・パジャ以下残り362名はついに発見されず、遠い異国の大島樫野崎沖の海底深く今も眠り続けているのです。
  この事件は沖大島村長から知事を通じて政府に通報され、明治天皇の知るところとなりました。天皇はたいへん心を痛められ、政府として可能な限りの支援を行うように指示され、遭難者に対する支援が国をあげて行われたのです。
 そして、生存者69名は事故から1ヶ月も経たない10月5日に東京の品川湾から出航した日本海軍の「比叡」「金剛」の2隻の軍艦で、翌年1891年(明治24年)1月2日にはオスマン帝国の首都イスタンブールに無事送り届けられたのです。

  
一方、同年には、県知事ほか有志により義援金が集められ、墓碑と遭難追悼碑が建てられ、同年3月7日に追悼祭を行い、遭難した人々の霊を丁重に弔ったのでした。この事件は、新聞などによって全国に報道され、全国からから多くの義捐金が集まり一部は、直接トルコへ送られました。また、この遭難事件は、その後の日本での海難事故対応の教訓として生かされています。このエルトゥールル号遭難事件はトルコの国内にも大きな衝撃を与えました。特に新聞を通じて大島村民による救助活動や日本政府の尽力が伝えられ、トルコの人々は遠い異国である日本と日本人に対して好感を持つことになったのです。


(3)山田寅次郎

  エルトゥールル号遭難事件は、日本中に大きな衝撃を与え官民から多額の義捐金が集められたのですが、中でも山田寅次郎という茶道の家元は、民間人ながら新聞社などの協力を得て全国から多額の義捐金を集め、それを持ち1892年4月4日トルコに渡りました。一民間人ながら遠い日本からわざわざ義捐金を持ってきたことが知れると、彼は熱烈な歓迎を受けました。彼は外務大臣サイド・パシャに義捐金を手渡し、次に皇帝アビドゥル・ハミト2世に拝謁しました。皇帝は彼にそのままトルコに留まるように要請したため、彼はそのままトルコに留まり、中村商店という貿易会社を経営しながら、二十年間、士官学校で日本語を教えるとともに、日本とトルコの友好親善に尽くしました。
  そんな中、日本は日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破り日露戦争に勝利しました。このことを喜んだトルコ国民は、世界最強のバルチック艦隊を撃破した連合艦隊提督東郷平八郎にちなんで子供にトーゴーという名をつけることが流行したということです。その後、日土関係はいろいろな変遷を経て1924年にローザンヌ条約締結、そして翌年の大使館開設により日本とトルコは正式に国交を結ぶことになりました。そして、トルコ大使館が開かれると彼はトルコ大使館と大阪の財界との間を取り持ち、大正14年(1925年)に日土貿易協会を設立し、その理事長に就任して日本とトルコの貿易を行ったのです。
  昭和6年(1931年)、17年ぶりにトルコを訪問した彼は大歓迎を受けたのでした。そして、大統領のムスタファ・ケマルにも首都アンカラに招かれたのですが、その折、大統領から『士官学校であなたが日本語を教えていた時、自分もその中のひとりとして日本語を教わった』と感謝され、
厚誼を受けたのでした。



2.危険を冒して日本人を救出したトルコ機


  
『情は人の為ならず、めぐりめぐって己が為』という諺(解釈はいろいろあるが)がありますが、エルトゥールル号の遭難事件が起きてから105年後、日本人がすっかりエルトゥールル号のことを忘れてしまったころに、この諺どおりの事件が起きたのです。


(1)イラン・イラク戦争

  1980年。イランとイラクが国境をめぐって戦争になりました。ぞくに言うイラン・イラク戦争(イランとイラクが国境をめぐって行った戦争で、1980年9月22日に始まり1988年8月20日に国連の安全保障理事会の決議を受け入れる形で停戦を迎えた。名称として「湾岸戦争」「第一次湾岸戦争」と呼ばれた時期もあるが、2007年現在の日本では、単に「湾岸戦争」と言えば1990年〜1991年のイラクのクウェート侵攻に端を発した戦争(第二次湾岸戦争)を指す。この戦争は、数次に渡る中東戦争、湾岸戦争などと並んで中東地域の不安定さを示す材料であるとされる。中東における不安定要因は、ユダヤ教のイスラエルとイスラム諸国の対立という図式で考えられることも多いが、この戦争はイスラム教内のシーア派とスンナ派の歴史的対立や、アラブとペルシアの歴史的な対立の構図を現代に復活させたことに於いて、非常に興味深い事件であるといえる。また、イスラム革命に対する周辺国と欧米の干渉戦争と捉えることもできる。)です。戦禍は長引き停戦を迎えたのは8年後のことでした。事件はこの戦争中に起きたのです。開戦から5年後目の1985年、停戦の目途が付かない状態に業を煮やしたイラクの大統領サダム・フセインは、『3月19日20時30分以降をタイムリミットとして、この期限以降にテヘラン(イランの首都)上空を飛ぶ航空機は、軍用機であろうと民間航空機であろうと、いかなる国の機体であろうと、すべて撃墜する』と布告したのです。


(2)トルコ機日本人を救う。

 当時、テヘランには技術関係者や商社関係者とその家族など約1000名の日本人が住んでいましたが、毎晩のイラク軍の爆撃のため多くの日本人は事前に国外脱出をしていましたが、タイムリミットである3月19日になっても300名ほどの日本人が空港に取り残されパニック状態になっていました。ドイツやイタリアなどの外国人は自国政府が臨時救援機を送り込んで次つぎに退去していきました。どこの航空機も自国民救済が第一ですので、いよいよ日本人は取り残されていきました。日本政府も取り残された日本人の救出策をいろいろ手を打ちました。先ず、自衛隊機を飛ばすことを考えましたが野党の反対などで実現せず、次に日本航空に緊急の救援機派遣を求めたのですが、「帰路の安全が保証されていない」ことを理由にこちらも拒否されまったのです。
 そうこうしているうちに、刻一刻とタイムリミットが近づいてきました。空襲警報が鳴り止まないテヘランのメヘラバード空港は極度の緊張に達していました。するとそこに2機のボーイング727が飛来してきました。トルコ航空機です。取り残された日本人を救出するために、日本政府の要請に答えたトルコ航空機でした。1機目の215人乗りのボーイング727には日本人が、2機目には1機目に乗り切れなかった日本人と、本国からの救援を待っていたトルコ人が乗り込み、飛行機はあわただしく空港を飛び立ちトルコに向ったのです。日本人全員が救出されたのです。このときタイムリミットまで2時間をきっていました。


(3)何故トルコ機は日本人をすくったのか

 トルコに救援を依頼したのは商社サイド(伊藤忠のイスタンブール駐在関係者)と、外務省サイド(イランの日本大使館の野村豊大使)の二つのルートです。依頼を受けたトルコ政府は早速トルコ航空に打診しました。トルコ航空では機長たちを集めて緊急ミーテイングが開かれました。『テヘランで助けを待っている日本人がたくさんいる。非常に危険なフライトである。それでも飛んでくれる者は手を上げてくれ』というと、一瞬、静寂の間があり、次に『私が行きましょう』『私が行きましょう』と、その場にいた全員が笑みを浮かべながら立ち上がりました。結局、この困難な任務は、オズデミルとギョクベルクの二人の機長に決定し、20数時間後、2機のトルコ航空機がテヘランのメヘラバード空港に到着し、取り残された日本人全員を乗せて、トルコへ飛び立ったのです。後に、テレビに出演したオズデミル元機長はこのときの様子を次のように語っています。

『任務を辞退しようなどとは思いもしなかった。トルコ国民として日本人には親近感があった。日本人を愛している。このような任務がまたあれば、喜んでやるだろう』と。

 しかし、助けられた日本人の乗客は、なぜ、トルコの人々が危険を冒して自分たちを助けてくれたのか不思議でならなりませんでした。そして、一人の日本人がスチュワーデスの一人に尋ねました。『なぜ,何のかかわりもないトルコのあなたたちが、自分の命も危険なのに私たちを助けに来てくれたのですか』すると、スチュワーデスが小さくほほえんで、『ほんの小さな恩返しをしたまでです』と答えたのでした。
日本国内でも、トルコが何故自国民に優先し、危険を冒してまで日本人を救出したのかわからなかったのですが、後に元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏が産経新聞に寄稿した前述の記事を読んでやっと理解できたのです。もう一度記述します。

 『エルトゥール号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥール号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです』

 この記事を見て殆どの日本人は初めて「エルトゥール号遭難事件」のことを知ったのです。(この事件はのちに、テレビの「日立世界・不思議発見」(TBS)、「奇跡体験!アンビリーバボー」(フジテレビ)、「プロジェクトX」(2004年NHK)などの番組で取り上げられたり、インターネット上でもたくさん取り上げられているのでご存知の方も多いと思います)


3.後日談


 
このように書いてくるとトルコは世界でも数少ない親日国と思ってしまうが、現実には、今では日本に批判的な意見も結構多いようです。何故か。いくつかの理由があるがその中の主なものは、前述したトルコ航空機の日本人救出劇に起因いているといわれています。トルコが何故、何の関係も無い日本人を救出したのか、原因がわからないまま、一部の大手新聞が「日本からの援助が欲しいから助けたのだろう」という心無い内容の記事を載せたことにトルコが反発したといわれています。それはそうだろうと思う。何の見返りも求めない純粋な善意の行動を、金欲しさの行動だろうといわれれば本人が善意であればあるほど怒りもするし、がっかりもするだろうということは容易に理解できることです。
 更に、もう一つ不祥事が発生したのです。平成18年1月9日、小泉総理がトルコを訪問したときに、救援機の2人の機長のうちオズデミル元機長とだけ面会し感謝の意を伝えたのである。調査不足による失態です。しかし、変なしこりを残すことになったのです。
 このようないくつかの不愉快な出来事はあったが、基本的にはトルコが世界で数少ない親日的な貴重な国であることには代わりはありません。この関係を今後も進めていくためにはどうしたらよいのでしょうか? 結局、われわれ一人ひとりが「エルトゥール号遭難事件」のときの大島島民の困っている人・助けを求めている人を「助けてあげたい」と思う「優しい心」を持った行動をとることでは無いでしょうか。


まとめ

  以上のように、エルトゥール号の遭難事件に始まる日本とトルコの友好の歴史には、多くの教訓的な内容が含まれています。
先ず、一つ目は、「
やさしさ」です。やさしさは人が人として生きていくうえで最も大切なものです。

  『強くなければ生きられない。優しくなければ生きる資格がない』(L.チャンドラーの小説「プレイバック」の中の探偵フィリップ・マーロウのせりふ、『If I wasn't hard,I wouldn't be alive.If I couldn't ever be gentle,I wouldn't deserve to be alive』から) という言葉がありますが、まさに言い得て妙です。
  「やさしさ」は他者にたいする「
思いやり」です。思いやりとは、困っている人や助けを求めている人がいたとき、何とかその人を助けてあげたいと思うこころです。
 この「思いやり」のあるこころを育むためには「
相手の立場に立って考えることが必要です。自分の損得を抜きにして、自分が相手の立場だったら自分にどうしてもらいたいのかを相手の立場で考えることです。これは、ある程度の訓練が必要かも知れません。事あるごとに相手の立場になって考える癖をつけ、自然にやさしい行動が取れるように努めることです。
  自分たちの食べるものにも事欠くような貧しい大島島民たちが、一生懸命にエルトゥールル号の遭難者たちを救おうとしました。このように、「やさしさ」は具体的には「
与えること」と言えます。「物を与える」、「お金を与える」、そして、「真心を与える」ことです。
  このような「やさしさ」「思いやり」「相手の立場に立って考えること」「あたえること」は、小さな島国で稲作・漁労により貧しいながらも万物と「共生」して生きていかねばならなかったわれわれ「
日本人の特性」として捉えることが出来ます。 日本人のやさしさのエピソードとしては、社会人基礎コースAで紹介した明治初期に来日した米国の動物学者、エドワード・モースの事例を引くまでもありません。(モースはある日、日本で雇い入れた料理人の子供とその友だちの日本人の10歳くらいの少女ふたりを連れて東京の夜店を散策しました。この二人に十銭ずつ小遣いを与え、何に使うだろうと興味をもって眺めていたところ、ふたりは、道端に座って三味線を弾いている物乞いの女に歩み寄ると、地べたのザルにおのおの一銭を置きました。みずからも貧しい身なりをした少女たちの振る舞いを、モースは驚嘆のまなざしで『日本その日その日』(東洋文庫)に書き留めています)。
  
このように書いてくると、一見、与える側は損をしたように感じるかも知れませんが、少なくとも与えられた人は助かったり、幸せになったりします。そして、与えた側も心が満たされ、幸せな気持ちにさせられます。これが真の「幸せ」です。この「与える」ことを仏教の教えでは「菩薩行」あるいは「布施行」といい、仏への道です。(「菩薩行」・「布施行」については仏教コースの般若心経で詳述します)
  かつてアメリカンドリームを達成し、地位、財産、名誉を手に入れたカーネギー、ロックフエラー、フオード達が、晩年には手に入れた莫大な財産を「
寄付」しています。最近ではパソコンで世界一の金持ちといわれたビルゲイツも約4兆円とも言われる個人財産を寄付したニュースは記憶に新しいと思います。何故、このように地位、財産、名誉などを手に入れた人達は最後には「寄付」をするのでしょうか。それは、他人と競争し獲得した地位、財産、名誉などでは人間の欲望は満足することはできず、幸せにはなれないからです。晩年になって、そのことに気のついた彼らは心の安らぎを求めて社会のためにせっせと寄付をしたのです。この様に人の評価は、どのくらい人のために尽くしたか、すなわち「やさしい」人生を送ったかどうかが重要なのです。
 次に、オードリー・ヘップバーンの事例を見て見ましょう。世界的大女優として名声を博した彼女は引退後に、国際連合児童基金のユニセフ親善大使に就任し、内戦の続くソマリアやスーダンなどの子どもたちの支援活動に尽力しました。親善大使に就任したとき、彼女は『わたしは、ユニセフが子どもにとってどんな存在なのか、はっきり証言できます。なぜって、私自身が第二次世界大戦の直後に、食べ物や医療の援助を受けた子どもの一人だったのですから』と語っています。(彼女は大戦中、ナチスの迫害を逃れながら生きてきたという生い立ちがあります)スーダンで子供たちの支援活動をしているときの彼女の写真がありますが、若い頃とは別のこころを満たされた美しさがにじんでいます。
そんな彼女がアフリカの子供たちのために活動しているときの詩がありますのでご参考までに次に紹介します。

魅力的な唇になるためには 優しい言葉を紡ぐこと
愛らしい瞳になるためには 他人の素晴らしさを見つけること
スリムな体のためには 飢えた人々と食べ物を分かち合うこと
美しい髪のためには 一日に一度子供の指で梳いてもらうこと
美しい身のこなしのためには 決して一人で歩むことがないと知ること

人は物よりもはるかに多く 回復し 復活し 生きかえり
再生し 報われることが必要なのです
繰りかえし 繰りかえし報われることが

誰も決して見捨ててはなりません
もし、助けてくれる手が必要ならば
自分の腕の先にその手を見つけられることを忘れてはなりません
年齢をとれば 人は自分に二つの手があることに気付くでしょう
ひとつの手は 自分自身を助けるために
もう一つの手は 他者を助けるために


  
前述のように、『情けは人の為ならず、めぐりめぐって己がため』という言葉があります。これは、「なさけ(思いやり)を人にかけておけば、それはめぐりめぐって自分に良い報いが来る。人に親切にしておけば、必ずよい報いがある」ということから来ています。「やさしさ」はめぐりめぐって、自分が困ったときには誰かに支えてもらうことになります。これが世間・社会というものです。まさにトルコ航空機による日本人救出は、エルトールル号遭難事件のなさけの帰結したものといえるでしょう。かといって、最初から「見返りを求めて」やさしさくするというのはおかど違いです。仏教に「お布施」(仏教基礎コース参照)というのがあります。「お布施」は、古代インドにおいて裸同然で修行している修行僧を見た村人が、気のどくに思い身体に巻きつける布を施したのが起源といわれています。ですから布施というのですが、この布を施した村人は裸同然の修行僧に何か見返りを求めたとは思えません。この村人の行為の動機は大島島民のこころと同じ「やさしさ」だろうと思います。ただ、仏教でお布施という場合は一寸意味が違うようです。例えば普通は物をあげた場合、貰った相手が「ありがとうございます」と感謝の言葉を言いますが、お布施の場合は、施したほうが「ありがとうございます」と感謝の言葉を言います。
  このように「やさしさ」は、一人では生きられないわれわれ人間が、社会で生きていくうえで、最も大切なものですが、世の中にはこの「やさしさ」の面から考えさせられる事件がありました。実は、エルトゥールル号遭難事件の4年前、国際法上有名な「
ノルマントン号事件」が起こっています。この事件はイギリス貨物船ノルマントン号が和歌山沖で遭難したのですが、このときドレイク船長以下白人は殆ど全員がボートで脱出しましたが、乗客の日本人25名は船に置き去りにされ、全員溺死するという痛ましい事件です。しかし、裁判では船長以下白人全員無罪となりました。根底には人種差別と不平等条約があったとされています。後日、世論に押された日本政府の抗議もあり再審の結果、船長のみ禁固3ヶ月の有罪になったという、なんとも後味の悪い事件です。当然、大島島民もこの事件は知っていたはずです。しかし、彼らは目の前で助けを求めている見ず知らずの外国人を助けずにはいられなかったのです。「やさしさ」とはそんなものなのではないでしょうか。
 
この優しさは、誰もが持ちえなければいけないものです。ですから、例えば営利を追求する会社の経営者も例外ではありません。古くは、江戸時代の近江商人の経営理念は「三方よし」です。この考え方は売る手が利益を独り占めしないで自分、相手、世間で分け合いましょうという商人の智慧です。そうすることにより、相手や世間に信用され商売が繁盛し、商売が永続するというものです。また経営の神様といわれる松下幸之助の経営哲学は「繁栄」です。これも自分と商売相手はもちろん、世間全体が繁栄するような商売をするべきだといっています。(参照:「経営者基礎コース第1回松下幸之助を学ぶ」)世間全体が潤わないと自分も相手も儲からないし、企業の永続もありえないということです。これは、最近のホリエモン事件、村上フアンド事件、グットウイル事件などを見ればよくお分かりになると思います。自社の利益のみをもとめ、商売相手や世間を食い物にした商売が長続きするわけが無いのです。営利を追求する商売でさえ「優しさ」「思いやり」を無視しては経営は成り立たないのです。
 また、「やさしさ」の特性として「
自己犠牲」があります。貧しい大島の人々は自分たちの非常用の食料まで遭難者に与えました。このように「やさしさ」は大なり小なり「自己犠牲」を伴います。やなせたかしの「アンパンマン」はこの「やさしさ」をテーマにした漫画です。アンパンマンは食べ物に困った人がいると自分の体の一部をちぎって与えて救います。このようにやさしさは「自己犠牲」を前提に成り立つものといえます。ですから、「やさしさ」は「尊い」といえるのです。

  二つ目の教訓は、「
素直なこころ」と「感謝のこころ」の大切さです。お世話になったら「ありがとう」と素直に感謝の言葉がいえる心です。エルトゥールル号の遭難者を必死になって助けた大島島民の優しさも素晴らしいが、この優しさに対して「ありがとう」と素直なこころで感謝しているトルコ国民も素晴らしいと思います。当たり前の話のようですが、実は複雑な国際社会ではそう簡単なことではないようです。日本に毎年、何十、何百もの海上遭難者を救助されていても「国民の赤恥」と報じる国もあると聞いています。これではなかなかお友達にはなれません。やはり人と人が寄り添い社会生活を送る上では素直なこころ、感謝の言葉はやさしさと同様大切です。
 また日本語には「
ありがとう」の他にも感謝の心を表す素晴らしい言葉があります。「おかげさま」です。もともとは、砂漠の中のオアシスのように旅人の暑さや渇きなどの苦しみを緩和してくれる存在を言います。今日一日無事に過ごすことが出来た、これも自分を取り巻く親、家族から神様、そして宇宙の万物に対して真心から感謝の気持ちをこめて「おかげさま」といえる素直なこころです。「やさしさ」と同様に「おかげさま」の気持ちを持てる人は幸せになることが出来ます。
 
また、仏教には「小欲知足」という教えがあります。これは、「今、あるがままの自分を認め、満足し、幸せに感じるこころ」です。誰にでも健康に不安があるとか、経済的に苦しいなど悩みや苦しみは尽きないものです。これらの悩みや苦しみを全部包含して「幸せ」と感じることです。
  以前武蔵野大学副学長だった仏教学者花山勝友氏がこんなことを話していました。敗戦後、東京裁判が戦勝国側によって行われ何千人もの日本人がA級、B級、C級戦犯として裁かれ、戦争責任の名の下に処刑されました。その中で東条英機などA級戦犯として処刑される7人に最後の面会が許されたのが、浄土真宗本願寺派の僧侶であり東大教授であった彼の父の信勝でした。彼は巣鴨拘置所の教誨師として処刑される人の最後の言葉、遺言を聴いたのですが、その中に
『おかげさま 今日も一日 生かされたぞ ああもったいない あリがたい』というのがあったそうです。これがおかげさまの本当の意味だろうと思います。 
  では、幸せになれない人の考え方はどうなっているのでしょうか。例えば、「アイツが悪い」「コイツが悪い」「社会が悪い」「国が悪い・・・」と原因を他に転化する人や、「大金持ちになりたい」、「長生きをしたい」などと間違った幸福を追求している人等です。いくら大金持ちになっても、いくら長生きしても、おそらく殆どの人が満足しません。

  
エルトゥール号の遭難事件に始まる日本とトルコの友好の歴史には、この二つの他にも教育・歴史・外交など教訓にすべきことはありますが、やはり最も重要なのは前述の「やさしさ」と「素直な感謝のこころ」に勝るものはありません。それはこの二つの要因が人間として最も根源的な要素だからです。エルトゥールル号の遭難事件に始まる日土友好関係は、この「やさしさ」と「素直」・「感謝」のこころ」の善意のストロークにより形成されてきたものです。今後もこの良好な関係はわれわれの手で一層発展させていく必要があります。



参考


 
エルトゥールル号の遭難事件に始まる日土友好の歴史についての多数のサイトの中から次の六つを御参考のためにご紹介します。

エルトゥール号の遭難事件『ウィキペディア(Wikipedia)』

絵物語エルトゥールル号の遭難

串本町観光協会

トルコ共和国大使館

串本町ホームページ:トルコとの交流

トルコと日本を結びつける100年越しのある事件